武三思
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武三思(ぶ・さんし、生年不詳-707年)中国・唐代の政治家。則天武后の姪、元慶の子。
[編集] 略伝
文水(山西省)の出身。則天武后の一族ということで右衛将軍に抜擢され、武后が政権を握ると夏官尚書に任命され、「周」と王朝を変えた時に梁王に封ぜられ一千戸を賜る。ついで天官尚書を拝命し695年春官尚書に転じて国史を監修し、698年に検校内史、翌年には特進太子賓客にすすめられた。『新唐書』芸文志によれば、「即天后実録」20巻は彼と魏元忠が編纂したものという。武后の信任も厚く、同じく寵臣の張易之・昌宗兄弟と結んで権勢の確保につとめた。野望をたくましくし、従父兄の承嗣とともに皇太子となろうとし、武后もその望みを容れようとしたが狄仁傑の諫言により実現しなかった。
中宗の娘の安楽公主が子の崇訓に嫁いできたために三思の威権はますます重く、直言の士を迫害し桓彦範・敬暉・袁恕・崔玄暐・張柬之を斥け、お気に入りを大官に仕立てて政治を紊乱し、中宗の妃・韋氏と上官・昭容とに私通する醜行をあえてした。
三思は太子(重俊)と不仲であり、太子を廃して安楽公主を皇太女にたてようとした運動に不満を感じていた太子が707年に兵を発して三思・崇訓父子と親族数十名を殺した。これに対し中宗は哀悼の儀式を挙行し、三思には大尉を追贈して宣と諡したが、睿宗が即位すると三思父子に逆節があることを理由にその墓所を破壊した。