武蔵 (戦艦)
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艦歴 | |||||||||||||||||||||||||
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起工 | 1938年 3月29日 | ||||||||||||||||||||||||
進水 | 1940年 11月1日 | ||||||||||||||||||||||||
就役 | 1942年 8月5日 | ||||||||||||||||||||||||
除籍 | 1945年 8月31日 | ||||||||||||||||||||||||
性能諸元 | |||||||||||||||||||||||||
基準排水量 | 65,000トン | ||||||||||||||||||||||||
満載排水量 | 72,809トン | ||||||||||||||||||||||||
全長 | 263.0m | ||||||||||||||||||||||||
全幅 | 38.9m | ||||||||||||||||||||||||
吃水 | 10.4m | ||||||||||||||||||||||||
最大速 | 27.46ノット | ||||||||||||||||||||||||
乗員 | 3,300名 | ||||||||||||||||||||||||
装甲 | 舷側 410mm、甲板 200mm、主砲防盾 600mm | ||||||||||||||||||||||||
艦載機 | 零式水上偵察機・零式観測機他、最大7機 | ||||||||||||||||||||||||
兵装 |
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武蔵(むさし)は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍の大和型戦艦の二番艦である。当時は武藏と表記された。
目次 |
[編集] 概要
僚艦同様本艦の建造は極秘とされ、船台の周囲には魚網に使う棕櫚(しゅろ)が全面に張り巡らされ、そのために棕櫚の価格が高騰することとなったほか、付近の漁民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂していたという。また、対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫を建造するなど(長崎市営常盤町倉庫)、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した。このような厳重な機密保持のもとではあったが、進水時には船体が外部に露見してしまうため,当日を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団員1200名などを配置した。このような厳重な警戒態勢の中で進水式は挙行された。狭い港内に長崎造船所第二船台から滑り込んだ武蔵の船体は、周辺の海岸に予想外の高波を発生させた。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている。
- 1938年 - 3月29日 三菱重工業長崎造船所にて起工。
- 1940年 - 11月1日 進水。
- 1942年 - 8月5日 呉にて竣工。横須賀鎮守府籍に編入。
- 1943年 - 2月12日 連合艦隊の旗艦となる。
- 1943年 - 5月17日 金剛・榛名とともに山本五十六長官の遺骨を乗せてトラック島を出撃。
- 1944年 - 5月4日 巡洋艦大淀に連合艦隊旗艦を譲る。
- 1944年 - 6月15日 マリアナ沖海戦参加。
- 1944年 - 10月22日 レイテ沖海戦参加。
- 1944年 - 10月23日 パラワン水道にて摩耶の乗組員を救助。
- 1944年 - 10月24日
- 9時30分 大和の見張員がアメリカ陸軍偵察機を発見
- 10時頃 能代のレーダーが100㌔の彼方に敵機の大編隊を発見。
- 10時25分 敵機約40機 を見張員が発見。しかし乱積雲の中に見失う。
- 10時27分 第一次空襲(44機)。外周の駆逐艦、巡洋艦の砲火をくぐりぬけ武蔵に殺到。爆弾1発が命中したが、厚い装甲が跳ね返し、空中で爆発。(被害なし) 3本の魚雷が襲うが2本は船底の下を通り抜けた。しかし1本命中。この影響で主砲が発砲不可能。艦は5°傾斜したが、注水し復元。
- 11時54分 レーダーが敵機の編隊を察知
- 12時07分 敵機来襲。主砲は故障のために個別発射のみ。主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受ける。魚雷3発と爆2発が命中。最大速力22ノット。
- 13時25分 第三次空襲。集中攻撃を受け爆弾7発と魚雷5本命中。速力16ノット。輪陣隊から離脱。
- 14時20分 第四次空襲。輪陣隊から離脱していたため攻撃を受けず。大和、長門に攻撃集中
- 15時15分 第五次空襲。集中攻撃を受け、爆弾10発、魚雷11発、その他多数を受ける。
- 17時30分 栗田艦隊と遭遇。摩耶の乗組員約600人が駆逐艦島風に移乗。「全力をあげ、島沿岸に座礁し陸上砲台となれ」との命令が下る。左舷への傾斜が10°を超えたため、機銃の残骸や負傷者や遺体が右舷に。
シブヤン海において、米軍機の雷撃20本あまり・爆弾多数(20発以上)と言う軍艦史上最多・空前絶後の損害を受け炎上、現地時間の19時35分頃に沈没。なお、現在に至るまで、正確な沈没地点は特定されていない。
大和よりも遅れて起工された本艦には、大和建造中に判明した不具合の改善や、旗艦設備の充実が追加指示された。しかも、もとよりドック内で建造された大和と異なり、船台上で建造された武蔵は、船台から海面に下ろし進水させるという余分なステップを踏まねばならなかった。更に工事の途中で太平洋戦争が勃発した為、工期を大幅に繰り上げるよう厳しく督促された。厳重な機密保持の中、作業に当たった人々は、超人的な努力で事に当たり、見事に成し遂げたのである。これらの経緯は吉村昭の『戦艦武蔵』および牧野茂/古賀繁一監修『戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。
レイテ沖海戦までに高角砲増設工事が間に合わなかった為、大和とは兵装が若干異なる。最終時には上甲板が黒い砥の粉で磨かれていたという説や、対空噴進砲(いまで言う対空ロケットランチャーのようなもの)を積んでいたという説もある(ただし当時の噴進砲は命中精度が悪く、ほとんど物の役に立たなかったと言われる)。
レイテ沖海戦で「被害担当艦」となるべく企図された、というのはおそらく風聞に過ぎないと見てよい。実際には大和よりも輪形陣の1列外側に占位していた事(当然内側よりも対空防御力が弱くなる)、大和の森下艦長が在任9ヶ月の間にマリアナ沖海戦などで戦闘航海を経験していたのに対し、猪口艦長が着任後間もなく、武蔵での航海や操艦の経験をほとんど積んでいなかった事、そして何より被雷して速力の落ちた武蔵に敵機の攻撃が集中した事が、結果的に武蔵沈没、大和はほぼ無傷に近いという明暗を分けたものであろう。猪口艦長は俗に「鉄砲屋」と呼ばれる砲術の専門家であり、最適の人事ではあったが、この扱い難い巨艦を自在に操るだけの慣熟期間を与えられる事無く最後の決戦に臨まねばならなかった事は、誠に遺憾であったと言う他はない。また、司令部が被害増大しつつある本艦を退避させる時期を逸し(司令部は第五次空襲直前に「武蔵ハ清霜ヲ指揮シ、要スレバコロン湾経由マニラへ向カエ」と指示。退避命令は遅きに失した。)第五次空襲まで艦隊に追従させたことも原因であろう。
前述にあるとおり、武蔵は爆弾10発以上。魚雷20本以上命中した上で大火災を起こし、艦内での必死の傾斜復旧のための注水(注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区に注水)が行われた。しかし艦の前部に著しい浸水を見た本艦は前後の傾斜差が8メートルを越え前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになった。最終攻撃の後必死の浸水防止の対策が採られたが19時15分左傾斜十二度となり艦長総員退去用意命令、軍艦旗降下後間もなくの19時30分頃急速に傾斜を増しついに19時35分頃左舷に転覆し沈没した。戦闘時の混乱で、正確な被雷爆数は現在でも不明である。しかし、戦闘終了後数時間以上に渡って浮き続け、微速ながら前進を止めなかったのは驚嘆に値する。沈没直前の艦前方が半ば海面下に没した写真は有名。
なお、大和が武蔵の半分程度の損害で(魚雷約10本、爆弾5発以上が一応の定説となっている)沈没したのは、この武蔵の驚異的な耐久力を戦訓とした米軍が、大和を攻撃する際には片側に集中して魚雷を命中させ(左舷に9ないし10本が命中したが右舷には1本のみ)、横方向への転覆を狙った為という説がある。
これらの実績を鑑みるに、3番艦である信濃も、正しく完成し乗組員が慣熟していれば、魚雷4本命中のダメージに耐え生き延びた可能性が高い。(航空魚雷と潜水艦用魚雷では、大きさが異なる等、異論もあり。)
[編集] 歴代艦長
- 有馬馨(大佐):1942年8月5日~
- 古村啓蔵(大佐):1943年6月21日~
- 朝倉豊次(大佐):1943年11月6日~
- 猪口敏平(少将):1944年8月15日~
[編集] 関連項目
[編集] 武蔵に関する書籍
- 戦艦武蔵のさいご(渡辺清)
- 戦艦武蔵(吉村昭)
- 戦艦武蔵レイテに死す(豊田穣)
- 帝国海軍の伝統と教育—付・比島作戦の思い出 戦艦武蔵初代艦長・南西方面艦隊参謀長有馬馨の遺稿(有馬 馨)
大日本帝国海軍の戦艦 |
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太平洋戦争 |
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この「武蔵 (戦艦)」は、軍艦に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。 |