毛利勝永
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毛利 勝永(もうり かつなが、1577年(天正5年) - 1615年6月4日(慶長20年5月8日))は、豊臣氏の家臣。毛利勝信の子。子に毛利勝家、毛利太郎兵衛がいる。
父の勝信と共に、豊臣秀吉の家臣として仕えた。1587年、父・勝信は豊前小倉6万石を与えられ、勝永にも豊前国に1万石を与えられる。
1600年の関ヶ原の戦いで父と共に西軍に味方したため、戦後、徳川家康から所領を没収されて改易となり、父と共にその身柄を加藤清正、次いで山内一豊に預けられた。1614年、山内氏の領国・土佐国から脱走して大坂城に入り、豊臣方の武将として大坂冬の陣で活躍した。
1615年の大坂夏の陣で兵四千を率いて敵将・本多忠朝や小笠原秀政らを討ち取り、徳川家康の本陣に激突するという大活躍を見せたが、兵力の多い関東勢に次第に押し返され敗勢が濃厚になると大坂城内に退却し、豊臣秀頼の介錯をした後で自害した。寛闊で沈着な人柄だったという。