江田五月
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江田 五月(えだ さつき、男性、昭和16年(1941年)5月22日 - )は昭和・平成期における日本の政治家。参議院議員(3期)。元衆議院議員(4期)。弁護士。
社会民主連合代表、日本新党副代表、科学技術庁長官、民主党参議院議員会長を歴任。
生年月日 | 昭和16年(1941年)5月22日 |
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出生地 | 岡山県上道郡財田村(現・岡山市) |
出身校 | 東京大学法学部政治学科卒業 オックスフォード大学法律証書課程修了 |
学位・資格 | 修士 |
前職・院外役職(現在) | 衆議院議員 判事補 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
参・国家基本政策委員会委員 参・法務委員会委員 参・憲法調査会委員 |
世襲の有無 | 2世 父・江田三郎(衆議院議員) |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
岡山県選挙区 |
当選回数 | 3回(衆4回) |
所属党派(現在) | 民主党(菅グループ) |
党役職(現在) | 倫理委員長 岡山県総支部連合会常任顧問 |
会館部屋番号 | 参・議員会館608号室 |
ウェブサイト | 江田五月 新たな出発 |
目次 |
[編集] 概要
[編集] 生い立ち
昭和16年(1941年)5月22日岡山県上道郡財田村長岡(現・岡山市長岡)に江田三郎、光子の長男として生まれる。父は、日本社会党書記長、副委員長、委員長代行などを務め、「構造改革論」による政権獲得を構想した人物。県立岡山朝日高校卒業後、東京大学に入学。学部自治会委員長時代に大学管理制度改革に反発し、他の学部とともに全学ストを実行する。江田はこのストを指揮したため、責任を取る形で退学処分となる。(このとき、全学の自治会中央委員会議長として全体の指揮を執りともに退学処分となったのが、後年民主党で同僚議員ともなった今井澄である)1年後、学生運動と絶縁し、東大に再入学。政治学科で丸山真男の薫陶を受け、吉野作造の研究に従事した。昭和40年(1965年)に司法試験に一発合格(8番の席次であった)。司法研修を終え、昭和43年(1968年)東京、千葉、横浜各地方裁判所で判事補となる。オックスフォード大学に留学し、裁判官としての将来を嘱望される立場だったが、父三郎の急逝で、政治家の道を歩み始めた。
[編集] 社民連代表 - 新進党時代
昭和52年(1976年)第11回参議院議員通常選挙(全国区)に社会市民連合から立候補し、当選する。昭和58年(1983年)第37回衆議院議員総選挙(旧岡山1区)に社民連から立候補し当選する。昭和60年(1985年)田英夫と社会民主連合(以下社民連)代表を交代する。社民連代表となった江田は、自民党に代わる野党連合政権の実現を模索し、社民連を結節点とする社会党、民社党の「ブリッジ会派構想」や、公明党を加えた、「社公民連合政権」などを構想するが、与野党伯仲状態から、中曽根康弘内閣が実施した衆参同日選挙により、自民党が304議席を獲得して圧勝し、画餅に帰す。
昭和63年(1988年)リクルート事件が発覚し、自民党内でも政治改革を巡り改革推進派と慎重派が対立し、自民党外では、日本新党、平成維新の会などが結成される。平成4年(1992年)江田は、政策集団「シリウス」を結成し、社会党内の右派や若手改革派を中心に勢力結集を図った。
平成5年(1993年)8月細川護煕を首班とする非自民連立政権に参加し、科学技術庁長官に就任する。平成6年(1994年)社民連は解党、江田は日本新党に阿部昭吾とともに参加し、副代表となる。同年12月10日の新進党結党大会には大会招集委員長を務めた。平成8年(1996年)岡山県知事選挙に立候補するため、新進党を離党し、衆議院議員を辞職するが、知事選挙では僅差で自民党推薦候補石井正弘に敗北する。選挙後は新進党とは距離を置き弁護士業務で生計を立て政界復帰を目指した。
[編集] 民主党時代
平成10年(1998年)第18回参議院議員通常選挙に民主党公認で参議院岡山選挙区から立候補し、当選する。
平成16年(2004年)7月、改選数一人に減員された岡山県選挙区で自民党公認候補を破り通算3期目の当選を果たす。
平成16年(2004年)7月~平成18年(2006年)6月、参議院「民主党・新緑風会」議員会長。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 江田五月 新たな出発(公式サイト)
- 民主党岡山県総支部連合会