渾作戦
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渾作戦(こんさくせん)とは太平洋戦争中の日本軍の作戦。 ビアク島支援の作戦で、3次にわたり行われたがアメリカ軍のマリアナ諸島襲来により中止された。
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[編集] 概要
1944年2月にアメリカ軍はラバウルから北西に位置するアドミラルティ諸島、マヌス島を攻略し、同年4月にはホーランジア、アイタペに上陸、占領した。続いてアメリカ軍はマリアナ諸島攻略支援のためニューギニア西部のビアク島攻略を決めた。ビアク島はパラオから約1000km、ダバオから約1500kmに位置し、日本軍が設営した飛行場があった。アメリカ軍はまず、ワクデ島を攻略し、そこの飛行場を利用してビアク島を攻略することとし、1944年5月18日にワクデ島に上陸した。日本軍の守備隊は約500名であり、19日には島は占領された。
5月27日、アメリカ軍はビアク島へ上陸を開始した。日本軍はマリアナ諸島、パラオ諸島、西部ニューギニアのどこにアメリカ軍が侵攻してくるのか判断できず、ビアク島の守備隊は約1個師団、約12000名であった。ビアク島を喪失すれば、フィリピンの南部や東部蘭印が空襲に晒されるだけでなく、パラオ諸島の制空権が揺るぎ「あ号作戦」の成否に関わるため、日本軍は増援部隊を送ると共に、ニューギニア島西端ソロンに航空兵力を送ることとした。
[編集] 第一次渾作戦
6月2日、増援部隊を乗せた艦隊はダバオを出発した。部隊は以下の編成で左近允尚正少将が指揮した。
- 輸送隊本体:重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「敷浪」、「浦波」、「時雨」
- 輸送支援隊:敷設艦「津軽」、「厳島」、第127号輸送艦、第36号駆潜艇、第37号駆潜艇
- 警戒隊:重巡「妙高」、「羽黒」、駆逐艦「白露」、「五月雨」、「春雨」
- 間接護衛隊:戦艦「扶桑」、駆逐艦「風雲」、「朝雲」
3日、部隊は哨戒機に発見された。そのため部隊はソロンへ向かうよう命じられた。
[編集] 第二次渾作戦
8日3時、部隊は駆逐艦「敷浪」、「浦波」、「時雨」、「白露」、「五月雨」、「春雨」の6隻で再度ソロンから出撃した。12時30分、B-25による空襲を受け春雨が沈没したが、部隊はそのままビアク島へ向かった。22時頃、重巡「オーストラリア(HMAS)」、軽巡「ボイス」、「フェニックス」、駆逐艦14隻の艦隊と遭遇、レーダー射撃を受け、連合軍艦隊も高速発揮できる巡洋艦艦隊であったため追撃されたが、かろうじて離脱した。しかし、至近弾などで駆逐艦部隊も損傷し、輸送は失敗した。
[編集] 第三次渾作戦
2度の失敗から、兵力が強化され以下の艦艇で3度目の作戦が行われることとなった。
- 攻撃部隊:戦艦「大和」、「武蔵」、重巡「妙高」、「羽黒」、軽巡「能代」、駆逐艦「沖波」、「島風」、「朝雲」
- 輸送部隊:重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「満潮」、「野分」、「舞風」、敷設艦「津軽」、「厳島」、第36号駆潜艇、第127号輸送艦
- 補給部隊:第2永洋丸、第37号駆潜艇、第30号掃海艇
部隊は6月12日、ソロン沖バチャン泊地に集結した。しかし、11日にはアメリカ機動部隊がマリアナ諸島へ来襲したため、13日に作戦は中止された。
[編集] その後
マリアナ沖海戦の前哨戦となる作戦であったものの、日本軍側の優柔不断とも言える作戦の指導から、ホーランジア戦やビアク島戦で「あ号作戦」のために準備していた航空戦力、ガソリン、重油など貴重な航空機や燃料である資源を消耗、消費してしまう。すでに日本軍側は航空機の数に限って見てもアメリカ軍に及ばず、マイアナ沖海戦で決定的な場所とタイミングでこれらの戦力を投入しても、日本軍がアメリカ軍に打撃を与えることは難しくなっていた。
この後、日本海軍はマリアナ沖海戦で敗北した。日本軍はニューギニアを放棄し、ニューギニアは制空権、制海権ともに連合軍が握ったため、増援ばかりか撤退も難しくなった。また、それまで安全であった原油産地の蘭印方面も連合軍の空襲を受けるようになった。
[編集] 関連項目
- 第二次世界大戦 - 太平洋戦争 - 太平洋戦争の年表
- 日本海軍艦艇一覧 - アメリカ海軍艦艇一覧
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