源義忠
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源義忠(みなもとの・よしただ)1083年(永保3年) - 1109年3月6日(天仁2年2月3日))は平安時代後期の武将。
最高位階は従四位下。官職は帯刀長、左衛門尉、河内守兼検非違使尉、右衛門権佐兼検非違使権佐などを歴任した。通称は源大夫判官、大夫判官義忠。
三代目の棟梁・源義家の四男(一説には三男、五男ともいう)として香炉峰の館で誕生。母親は藤原有綱の娘。子孫に稲沢氏・飯富氏などがある。源義家と有綱の娘の間には、新田氏、足利氏の共通の祖である源義国がいる。
河内源氏の棟梁の中で河内守に任官した最後。以降の棟梁は河内守にはなっていない。
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[編集] 総評
源義家の死後、河内源氏の家督を相続。伊勢平氏と和合し、勢力の保持を目指した平安後期の冷徹な政治家。兄弟に「悪対馬守」といわれた猛将の源義親、「荒加賀入道」といわれた猛将の源義国らがいる。歴史的に見ると義忠はこの時代の源氏の棟梁でありながら暗殺されたことから在任期間が短く存在感はあまりない。歴史教科書などには記載がないことが多い人物で棟梁でありながら略系譜などでは割愛されることが多い。義家の亡き後の源氏の棟梁となり天下に栄名を博したが、暗殺によって前途を断たれ、結果的に源氏の勢力を守りきれなかった人であり、後世の評価も低い。
[編集] 人物
義忠は頼義に似ていたと義家に評された。若年より帯刀長、河内守、検非違使などを歴任した。当然、その背景には父、源義家の力があったものと思われる。朝廷も義家を抑圧しつつも、恐れて懐柔策として義忠を河内守などの要職に就けたともいわれる。義忠は、近年まで、源義親、源義国の二人の兄が謀反や乱暴などの理由で朝廷から討伐されたり、流罪に処されていた為に急遽、父義家の死後、家督を継いだとされてきた。しかし、近年の研究の結果、義忠が義家の後継者に選ばれた時期は、今までの説より早いという説が有力になってきている。義忠が上国の河内守であるのに、今まで家督に最も近いのに謀反を起したとされていた源義親は下国の対馬守でしかなく、源義国は後年、加賀介になるが、それでも河内守に比較すると遥かに下位の官職である。このことからして、義家が早い時期から義忠を河内守として河内源氏の本拠地たる河内国の長官になる運動をしていたと考えると、義忠後継が早い時期に決まっていたものとされる。しかし、その一方で、朝廷が源氏内部に事件を起すために、兄を差し置いて弟に高位要職を与えたという説もある。義親の謀反も、弟の方が中央に近く、河内源氏のゆかりの地である河内守になったことへの不満が原因であったという説もあり、この説もこの後の源氏の衰退を考えるうえで重要である。
- 河内国 律令制度では「大国」その「守」は従五位上相当で義忠は家督相続以前にこの官位。
- 対馬国 律令制度では「下国」その「守」は従六位下相当で義親は家督相続以前にこの官位で、義忠と同時期。
- 加賀国 律令制度では「上国」その「介」は従六位上相当で義国は後年にこの官位を最高官職としている。
参考:国のランクは「大国」、「上国」、「中国」、「下国」の順。
[編集] 状況
1106年に巨星、源義家が死去すると、河内源氏はその勢力を縮小せざるを得なかった。また、義忠の兄、義親が西国で叛乱を起こし新興勢力で義忠には舅にあたる伊勢平氏の平正盛が討つという事態となり、河内源氏より伊勢平氏が優勢になり始める。朝廷でも白河上皇が院政を行い、摂関家とゆかりの深い河内源氏に替えて伊勢平氏を露骨に登用するようになる。明らかに河内源氏は後退期を迎えた。義忠は若年ながら河内源氏の屋台骨を支えるべく、僧兵の京への乱入を防ぐなど活動する。また、新興の伊勢平氏と折り合いをつけるべく、平正盛の娘を妻にし、平家との和合をはかった。そして、院政にも参画しつつ、従来からの摂関家との関係も維持すべく努力した。その結果、「天下栄名」と評せられる存在となった。しかし、河内源氏の中では新興の伊勢平氏との対等の関係を結んだ義忠のやり方に不満も多く、また、伊勢平氏と和合することで院政に接近した義忠が勢力を伸ばしたことを快く思わない源氏の一族の勢力も存在した。また、義家にくらべ武威に劣る義忠を軽んじ、自らが義忠に取って代わろうとする勢力も存在した。
- 注:「尊卑分脈」によると、義忠の室は平忠盛の娘であるが、年齢が忠盛の方が義忠より年下であることと、義忠が27歳で暗殺されることから近年は分脈の「平忠盛女」という記載は「平正盛女」と解釈するとの説がある。
[編集] 暗殺
源義忠暗殺事件は当初、叔父源義綱の子(義忠の従兄弟、源義明)とその家人藤原季方の犯行とされ、義忠の養子源為義によって義綱の一族は甲賀山に攻められ、義綱の子らは自決し、義綱も捕らえられ佐渡へ流された。しかし、その後になって、もう一人の叔父源義光の犯行であったことがわかった。 義光は、義忠の権勢が高まるのに不満を感じ、自らが河内源氏の棟梁になることを望み、家人鹿島三郎に義忠を襲わせた。義忠は鹿島三郎との斬りあいで重傷を負い、その傷が元で死去した。鹿島三郎は義光の弟の園城寺の僧侶快誉の下へ逃げて保護を求めたが、快誉によって殺害された。河内源氏は、義家亡き後、義忠、義綱という二人の実力者を失った。義光も暗殺事件の黒幕であることが発覚したため常陸国に逃亡し、都には幼い為義が残されることとなり、後見人のいない源氏は衰退した。
[編集] 参考史料と記事
- 『尊卑分脈』「甥判官義忠の嫡家相承、天下栄名を猜んだ」
- 『系図纂要』「叔父義光は鬱憤を含み」
- 『続本朝通鑑』「叔父義光、(義忠)声価を忌む」
[編集] 死後
義家、義親、義忠、義綱と実力者を失い、河内源氏は、源義光(新羅三郎義光)と源義国(足利式部大夫義国)、源義時(陸奥六郎義時)、源義隆を残すだけになった。義国は事件を起し、関東の地で蟄居の身であり、また、関東で常陸から勢力を広める叔父義光と合戦に及ぶなど、義国と義光の仲は険悪であった(義忠と義国は連合して叔父義光に対抗していたとする説もある)。そのため、河内源氏の勢力は、遠隔地の関東でも徐々に衰え始める。義時は義忠から河内国の石川庄を与えられていたが勢力も小さかった。義隆は無位無官で幼少でもあったので、義忠の死後、為義が河内源氏の棟梁となった。しかし、為義も幼少であったことと、実父の源義親(悪対馬守義親)ほどの武勇も養父義忠ほどの政治力もなかったために、河内源氏は伊勢平氏の蔭に隠れてしまう。河内源氏の復興は為義の子、源義朝に託されることになるが、それも叶わず、その義朝の子、源頼朝を待たなくてはならない。義忠の死後、平氏全盛となり河内源氏は雌伏を余儀なくされた。
[編集] 子孫
- 養子:源為義(義親の五男、河内源氏五代目棟梁)
- 長男:源経国(河内源太経国) 源義国の家人、源義朝の側近として保元の乱に参陣。河内氏。
- 次男:源義高(従四位下左兵衛権佐兵庫助) この系統は代々源姓を名乗る。
- 義高の長男:従五位上河内守源義成
- 義成の長男:伊予権介左衛門尉源義俊
- 義高の長男:従五位上河内守源義成
- 三男:源忠宗(飯富源太忠宗) 上総国望陀郡に飯富庄を設立。
- 四男:源義清(従五位下左京権大夫)この系統は代々源姓を名乗る。
- 義清の長男:因幡介左衛門尉源義久
- 義久の長男:従五位下宮内少輔源義高
- 義清の長男:因幡介左衛門尉源義久
- 五男:源義雄
義忠の子孫の多くは北面の武士、または近衛府や東宮舎人となった。一部には関東、河内にあって源平の戦いに参戦した者もいた。特に名を成したのは三男の源忠宗の孫である源季貞で、源大夫判官という曽祖父と同じ通称を名乗り、平家方の将として源平の合戦に参戦し、一族である石川源氏(義忠の弟の源義時の子孫)を討伐するなど活躍した。平家が壇ノ浦で敗れ滅亡すると囚われるが、源氏の一族であったこと、一子飯富宗季が源氏方として軍功があったことから助命されている。また、長男河内経国は、源義国の庇護を受けていたようで。義国の没後の保元の乱の時には義朝の側近として鎌田政清らとともに活動している(『保元物語』による)。しかし、その子、盛経の行動の詳細は不明であるが、その名に「盛」の一時があるように、平家と関係があったようで、一説には平家の家人で源季貞の指揮下にあり、後、源義仲との北陸での戦いに参加して篠原で戦死したともいう。義忠の末裔は、河内源氏棟梁の子孫でありながら、その地位を継承できなかったためか反源氏的な行動が見られる(文学博士奥富敬之氏の著書での持論)。また、義忠の妻が平忠盛の姉であることから、義忠の死後、その子らが平忠盛の邸で養われていたとする研究もあり、それが事実であれば、義忠の子孫が源氏ではなく平家に従った行動も理解できるだろう。また、鎌倉時代初期の文人政治家で歌人、源氏物語の研究者の源光行、源親行親子も、彼の子孫で、文人として繁栄した。どちらにしても、彼の子孫は河内源氏諸氏の中で異端な存在であったといえよう。
史料:『尊卑分脈』
[編集] 年表
- 1083 源義忠誕生。後三年の役が勃発。
- 1086 白河上皇の院政が始まる。
- 1087 後三年の役が終了。
- 1091 源義家への荘園寄進を停止。源義国が誕生か?
- 1092 源義家の荘園設立を禁止。
- 1095 北面の武士を置く。
- 1096 義忠、帯刀長となる。
- 1097 平正盛、荘園を上皇に寄進。
- 1098 源義家、院への昇殿を許される。義忠、左衛門尉となる。
- 1100 義忠、河内守に任官。
- 1101 源義親、乱暴狼藉を働き、召還される。
- 1102 源義親、隠岐に流される。
- 1104 義忠、左衛門権佐となり帰京。
- 1106
- 1107 平正盛に源義親追討の命令が下る。義忠、検非違使兼務。
- 1108 源義親が平正盛に討たれ、叛乱が鎮圧される。
- 1109 源義忠が暗殺される。
注:疑問符がついている義国の誕生であるが、この年に生まれたとする説も有力で、この説を採用すると、義忠は義国の兄となる。義家の子は、義宗、義親、義国、義忠、義時、義隆という順であるとするのが通説であるが、個別に誕生年度を調べると、義宗、義親、義忠、義国となる。また、義宗、義親の誕生の年は不明である。義家の子で誕生した年がわかっているのは義忠だけである。