猿丸大夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
猿丸太夫(さるまるのたいふ、さるまるだゆう、生没年不詳)は、三十六歌仙の一人。元明天皇時代または元慶年間ころの人とも言われるがまったくの不詳。
天智天皇の皇子施基皇子、聖徳太子の孫弓削王、柿本人麻呂との説もあるが、伝承上の人物との説が最も多く言われている。
猿丸は名、太夫は官位を表している。
「三十六人集」の中に『猿丸大夫集』なるものがあるが、後人による雑纂古歌集であり、その中の歌が猿丸大夫が作ったものであるかは不明である。
[編集] 猿丸大夫作と言われる歌
奥山丹黄葉踏別鳴鹿之音聆時曾秋者金敷
おく山に もみぢふみわけ なく鹿の こゑきく時ぞ 秋はかなしき(古今和歌集215、小倉百人一首5)
「もみじに鹿」の取り合わせは、この歌から始まった。
[編集] 猿丸太夫 = 柿本人麻呂説
梅原猛は謎の多いこの二人を「水底の歌-柿本人麻呂論」の著作で同一人物との論を発表して以来、少なからず同調する者もいる。
梅原説は、過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいないという柳田国男の主張に着目し、人麻呂が和歌の神・水難の神として祀られたことから、持統天皇や藤原不比等から政治的に粛清されたものとし、人麻呂が古今和歌集の真名序では「柿本太夫」と記されている点も取り上げ、猿丸太夫が三十六歌仙の一人と言われながら猿丸太夫作と断定出来る歌が一つもないことから(奥山も太夫作ではないとする説も多い)、彼を死に至らしめた権力側をはばかり彼の名を猿丸太夫と別名で呼んだ説である。
しかしながらこの説が主張するように、政治的に粛清に人麻呂があったのなら、当然ある程度の官位(正史に残る五位以上の位階)を人麻呂が有していたと考えるの必然であるが、正史に人麻呂の記述が無い点を指摘し無理があると考える識者の数が圧倒的に多い。