畠山義就
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畠山 義就(はたけやま よしひろ(よしなり)、永享9年(1437年)? - 延徳2年12月12日(1491年1月21日))は、室町時代の武将である。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家のひとつである畠山氏出身。管領畠山持国の子で、母は側室。初名は義夏。子に畠山義豊がいる。
畠山家の家督は養子に迎えた畠山持富(持国の弟)に決まっていたが、義就が出生すると48年に持富への相続を撤回し、室町幕府8代将軍の足利義政から裁可を得て義就が新たに後継者と定められる。義就への相続には、守護代の神保氏や被官らが反対し、持富の子である畠山弥三郎を支持して抵抗する。
1454年には弥三郎を没落させるが、細川氏や大和の国人である筒井氏らの支持を得て、義政から赦免された弥三郎は9月に再び上洛、義就は伊賀へ没落する。義就は12月に再び河内から上洛して弥三郎を追い、55年父の持国が死去すると3月には家督を継承。59年に弥三郎が病死すると、弟の畠山政長が擁立され、引き続き義就と対立。60年9月には河内へ没落して、政長が家督を継承。義就には討伐の綸旨が下り、朝敵となる。義就は嶽山城(大阪府富田林市)に篭城し、討伐に下った畠山、細川、武田らの兵と戦う。63年には嶽山城は陥落し、紀州から吉野へ逃れる。
義就は細川勝元と対抗する山名宗全(持豊)の支持を得て、66年12月には赦免されて河内から上洛。義政との拝謁も果たし、政長に畠山邸の明け渡しを要求させ、管領を辞任させる。翌67年には上御霊神社において衝突し、山名や斯波氏の協力を得て政長を破る(御霊合戦)。御霊合戦により山名方が有利となったことにより、翌年には細川方が巻き返しを図り応仁の乱となる。
乱では宗全率いる西軍に属して政長と戦う。77年9月に義就が政長討伐のために河内へ下り、遊佐氏を追い河内を制圧する。両軍の間で講和が成立し、西軍諸将が相次いで帰国して解散、82年8月には細川政元と和睦するが、政長との抗争はその後も続く。主戦場となった山城国で国人らの一揆が起こり(山城国一揆)、撤退を要求される。