白兵戦
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白兵戦 (はくへいせん)とは、兵士による白刃(はくじん)を用いた戦闘行為のこと。または、兵を白(さら)す戦闘のことをいう。
白兵とは、突く・切るなどの機能を持つ「白刃」を備えた兵種・兵装を意味し、刀・剣・槍・銃剣を総称する。 弓矢、投石器などの射撃武器、投擲武器を用いる遠戦の対義語であり、近代戦においては火器を用いた火戦の対義語となる。
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[編集] 白兵戦の歴史
ユーラシア大陸各地では遠戦を戦闘の主体とする地域が多かったが、ヨーロッパ中世においては例外的に白兵戦を重んじる文化が発達した。これはまた騎士同士の戦いは多分に儀式化され、かつ完全に相手の鑓や剣からの攻撃から身体を防備できる甲冑が発達したため、手加減の出来る(飛道具では不可)白兵戦が発達したと考えられる。とくにトーナメントが発達してからは、競技専門の甲冑が発達した。しかしながら小競り合いや儀式的な戦闘ではない戦争や、異教徒との戦いにおいては弓兵や投石機などの活躍が目立った。また、十字軍においてもしばしば白兵戦を闘う様子が記述されている。
[編集] 銃器発達後の白兵戦
近代においては拳銃や手榴弾を含む戦闘も白兵戦に含める傾向がでてきた。また、ゲリラ戦などにおいては、火器や弾薬の不足、あるいは静音のうちにおこなうためなどの理由から白兵戦が行われる例が見られる。
特に日露戦争中、野戦においてはロシア軍の白兵突撃と遭遇し、これと互角に戦闘した後の大日本帝国陸軍は白兵戦を重視し、火戦によって戦闘を繰り広げたのち、最終的に白兵をもって敵陣をうち滅ぼすことに重点を置くようになった。これが後に大日本帝国陸軍の人員のいたずらな損耗を招く一因といわれる。この悪癖は太平洋戦争になっても続き、南方戦において敵の十字砲火の中に絶望的な切り込み(バンザイ突撃)が敢行され悲劇的な全滅を繰り返えした部隊もみられる。もっとも、白昼においては機銃射撃のあと一丸となって突入することとされていたようだ。絶望的な突撃の場合も、これは多くの場合、弾薬も食料も尽き戦闘能力を失った部隊によってなされた、戦陣訓に代表される「生きて虜囚の辱めを受けず」の思想の下に行われた自殺攻撃であり戦術的視点から行われた攻撃とは言いがたい。
[編集] 近代戦における白兵戦
近代戦においては白兵戦は銃撃の後の最終的な突撃や、塹壕における戦闘の際に行われるのが原則である。銃の発達史において見ると、槓桿式以前では装填間隔が枷となって至近距離内で複数の敵と銃で渡り合えない限界を銃剣によって補っていたが、短機関銃の導入、そして自動装填装置の発達により小銃においても連続して弾丸を発射することが可能となり、実戦において白兵戦の機会は少なくなった。しかし潜入戦・奇襲戦・掃討戦などで近接戦闘が発生する機会は存在し、近接戦闘では銃器の使用が味方への誤射を招きかねない場面もあるため、今も世界のいずれの陸上軍においても個人技を中心とした白兵戦の訓練を行っている。イギリス軍の例ではフォークランド戦争とイラク戦争において白兵戦が存在したとされる。また、第一次世界大戦においても塹壕に、ありあわせの甲冑を作成して釘を打った棍棒をふりまわして夜間突入するといった作戦がとられたこともある。イスラエルでは、クラヴ・マガが正規軍、警察、特殊部隊、反テロリスト部隊に、公式の護身術として導入されている。
[編集] 日本における白兵戦
[編集] 日本における白兵戦の歴史
日本では中世、近世を通じて戦いの主流は常に遠戦であり、日本刀を用いての白兵戦が行われる機会は少なかったとされる[1]。その理由として、中世の日本においては歩兵は農閑期の農民から徴集されている事が一つにあげられる。短期間の訓練しか受けていない彼らには、白兵戦の戦果を期待することは出来なかった。
戊辰戦争後、明治になって四民平等の世になり、徴兵制が布かれ、武士階級出身者以外の兵士で軍隊が構成されるようになると、益々その傾向は進んだ。例えば西南戦争において、政府軍が薩軍との戦闘で消費した総弾薬数は、後の日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦での弾薬消費量と比較しても遜色のないものであったという。まだ連発式の小銃や機関銃が配備されていなかった頃である事を考えれば、この弾薬の消費量が如何に多いものであったかが分かり、白兵戦より銃撃戦(遠戦)が重視されていたことが推察できる。
尚、この西南戦争で薩軍の白兵戦の強さに手を焼いた政府軍は、自軍の中の士族出身者を選抜し抜刀隊を新たに編成し白兵戦に備えた。白兵戦専門部隊とも言える抜刀隊は、その後の戦闘で薩軍相手に大奮戦し、その精強ぶりは歌にまでなった。この事が、その後の大日本帝国陸軍に白兵戦偏重の伝統を作る原因になったとも言われている。
[編集] 白兵戦世界最強
白兵戦ならば、日本は世界最強であるとよく言われる。確かに大日本帝国陸軍は白兵戦を重視し、その装備も白兵戦を強く意識したものだった。一例を挙げるなら、世界的に見れば既に第一次世界大戦ごろには見られなくなった将校の帯剣も、大日本帝国陸軍では太平洋戦争終結まで将校の帯剣を制式装備(儀礼用ではなく、実戦装備)として続けていた。
ただし、大日本帝国陸軍がそこまで白兵戦にこだわったのは、大日本帝国の国力が火力重視の装備ができるほど豊かではなく、それでも欧米列強に対抗する為にはある程度の兵力を維持しなくてはならないので、あまり金がかからない白兵戦重視の軍隊にせざるえなかったという説もある。
[編集] 銃剣突撃の限界
白兵戦偏重主義と思われがちな日本陸軍だが、太平洋戦争前の中国との戦争の時点で、すでに白兵戦の限界を知っていたとする意見もある。当時の中国軍は自国での武器開発能力が低かったため、主力装備の多くを外国から輸入(もしくはライセンス生産)していた。特にドイツやチェコから輸入された兵器は優秀なものが多く、日本軍の兵器より優れた性能を有するものも多く存在した。この様な外国産兵器を敵に回し、無思慮な銃剣突撃が有効だったとは考えにくく、日本軍も慎重で的確な戦術を用い対処したと考えられる。これら外国製兵器の優秀さは、日本軍が捕獲兵器を準制式装備として使用していた事からも伺える。 いずれにしろ、高性能の兵器が備えられた堅固な敵陣地に、何の策もなくただ蛮勇をもって雄たけびを上げながら突貫するという日本軍のイメージは誤ったものであり、実際には優れた戦術を用いて戦った。
[編集] 刀を捨てられなかった日本軍
日本軍はついに『刀』を捨てる事ができなかった。航空機や空母、戦艦に戦車、大砲等の近代兵器を自国で開発・生産する能力がありながら、なぜ旧態依然たる刀を捨てる事ができなかったのか?
それは、日本人の日本刀に対する意識過剰がもたらしたものであろう。嘗て、江戸時代において名字帯刀できるのは武士だけであり、『刀は武士の魂』と言われるように刀は武士階級にとってのステータスシンボルであった。実質はともかくとして、当時武士階級はエリートと見なされ、帯刀する事がその証明と言えた。そのイメージが日露戦争以降新たに武士道として復活し、『近代化された武士』であるところの上級の軍人(将校)は心の拠り所として帯刀に拘ったと推測される。否定的な見解をするならば、彼らにとって刀は、武器と言うよりは武士たる自分を夢見るためのアクセサリーであったと言える。
しかし、現実の戦争で戦う将校にはアクセサリーは不要だったようで、太平洋戦争末期には日本刀の代わりに兵士と同じ様に小銃を装備する将校も大勢存在した。また、アメリカ軍との戦闘において日本刀が活躍したとするアメリカ軍側の記録はほとんど無く、戦利品としての人気が高かったことが記録されている。
このように日本刀に対するこだわりは、特に昭和期以降特段のものがあったと考えられるが、刀剣に実用以上の象徴性を認めるのは、西洋においてもそれなりに見受けられ、欧州諸国の文官・有爵者大礼服において佩刀の規定がある。しかし、第二次世界大戦において実戦で使用された記録は皆無である。
[編集] 陸上自衛隊
陸上自衛隊では、一般の幹部自衛官の礼装における儀礼刀の着用を認めず、外国との交際上に必要がある場合等に限って儀礼刀の着用を認めている。
陸上自衛隊においては、銃剣道や自衛隊格闘術によって白兵戦への対応を行っている。64式小銃の銃剣の丈が比較的長かったのは陸上自衛隊の白兵戦重視の影響ではないかと見る見解もある。