石川康勝
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石川 康勝(いしかわ やすかつ、? - 1615年6月3日(慶長20年5月7日))は、江戸時代初期の武将で石川数正の次男。石川康長の弟。幼名は勝千代。名は貞矩・員矩・数矩とも。
父数正と共に徳川家康に仕える。家康の次子秀康が豊臣家の人質に取られた時、兄康長とともに同行した。後、父の出奔に伴い、父兄と共に豊臣秀吉に仕えた。父の死後、遺領の信濃国松本藩8万石のうち、筑摩郡1万5千石を相続。1600年の関ヶ原の戦いでは、兄と共に東軍に与して所領を安堵されている。
1613年、兄の領地隠匿に連座したとして改易された(大久保長安と縁戚関係にあったことも理由とされる)。そして1615年、大坂夏の陣で豊臣方に与し、真田信繁の寄騎として真田丸攻防戦で奮戦するも配下が火薬を誤爆させ、これを東軍が内応の合図と勘違いした。結果的に敵を誘引、戦死した。