石田正継
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石田 正継(いしだ まさつぐ、? - 慶長5年9月17日(1600年10月23日))は、安土桃山時代の戦国武将。父は石田為広(陸奥守仲成?清心?為厚?)といわれるが不明。子に石田正澄、三成などがいる。左悟右衛門・藤右衛門・太郎右衛門。従五位下・隠岐守。「正継」は三成出世後の名乗りであり、それ以前は政成・為成・晴成など名乗っていたらしいが、何れもはっきりしない。
近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の出身の地侍というが、京極氏の被官とする説もある。和歌や文学に造詣の深い才人であった。子の三成が豊臣秀吉の家臣となるに及び、正継は代官としてこれをよく補佐した。三成が五奉行にまで出世し、佐和山城に封ぜられると、同時に正継も近江国内3万石の大名に取り立てられる(1595年)。以後は城代として、三成留守時の庶政を掌る。朝鮮出兵に際しては、楠木正虎とともに肥前名護屋城に駐屯し、帳簿を担当。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いでは西軍に与し、正澄とともに佐和山城にいて本丸を守備するも、小早川秀秋らの猛攻に遭って半日も持たずに敗退、落城に際して正継は自刃した。
墓所は京都市右京区の妙心寺で、当寺には正継の肖像画も所蔵されている。