石見銀山
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石見銀山(いわみぎんざん)は戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年に国指定史跡となり、現在ユネスコ世界遺産候補に挙げられている。
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[編集] 開発
鎌倉時代末期に銀が出たという伝説もあるが、本格的に開発したのは博多の商人、神谷寿貞である。海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間に1530年地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。この年、神谷寿貞は大森に入り、中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。(灰吹法確立以前は、鞆の浦(仁摩町)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。)
[編集] 銀山争奪
1537年、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、最終的に毛利氏が勝利を収める。しかし、1584年毛利氏が豊臣秀吉に服属すると銀山は毛利氏と豊臣氏の共同管理となった。石見の銀は秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。
[編集] 商業への影響
石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、精錬された銀(『丁銀(ちょうぎん)』)は基本通貨として広く国内で流通したばかりでなく、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガルや17世紀初めに来航したオランダ東インド会社さらに中国密貿易商人らとの活発な交易をも支えた。当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一に達し、スペインのペルー副王領ポトシ(現ボリビア、世界遺産)の銀山セコ・リコと並ぶ。日本は中国や西欧で銀産出国として有名になった。
その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されるほどで、そのうちの一部を地元の義肢装具メーカーの社長である中村氏が私財を投じてオークションで入手、大田市に寄贈された地図にも記載がある。当然、当時西欧諸国の王侯、特にスペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。この地図を持った船団が、インド・マレー半島・中国、そして日本にも貿易の手を伸ばし、石見銀山で産出される銀を求めてやってきた。
当然、石見銀山を手中にした武将(大内氏、尼子氏、毛利氏など)は積極的に海外諸国と貿易を行い、その輸入品の中に当時貴重であった『火縄銃』が含まれていた可能性もある。
[編集] 幕府直轄領
関ヶ原の戦い後、徳川家康は石見を幕府直轄領とし、初代銀山奉行として大久保長安を任命した。長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村に直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置され、大森に奉行所(銀産出量の減少により、後に代官所に格下げ)が置かれた。
開発当初、産出した銀は現大田市の鞆ヶ浦(仁摩町)や沖泊(温泉津町)から船で搬出されていた。しかし冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森-粕淵-九日市(美郷町)-三次-甲山-御調-尾道)を整備し、尾道から大坂の「銀座」へ船積みするようにした。幕府(直轄地外では沿道各藩)による取り締まりの元、領内の農村に対する人的・物的負担や、街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担(警備・接待など)の提供が厳しく課せられ、大きな負担となった。時として奉行所へ訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。
享保16年(1731年)大岡忠相の推挙により任ぜられた、第十九代代官の井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)は60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、領民から「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取・広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(さつまいも)導入・普及をもたらし、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免した。(後年、備中国笠岡で没した原因として病死説と切腹説があり、前者が概ね定説となっているが論議も続いている。)
[編集] 終末
石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えた(微量の金・銅も産出)が、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期にはほとんど産出しなくなった。幕末には長州戦争で長州藩が一帯を占領している。1887年からは大阪の藤田組(後の同和鉱業)により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移すが、1923年には休山するに至った。その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年より銅の再産出を試みるものの、1943年の大水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権は同和鉱業HDが保有している。
現在でも銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余り残り、龍源寺間歩の一部は一般公開されている。
[編集] 副産物
- 石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒であるヒ素化合物(亜ヒ酸)を大量に含んでおり、これを細かく砕いたものを殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り(猫いらず)」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。
- 金銀の精錬工程として当時の日本においては先進的であった「灰吹法」という技術が使われ、その際に鉛の蒸気を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の鉛中毒を発症した。また鉛には発がん性もあると考えられているので、坑道内の出水・高温多湿や鉱滓・煤塵などの劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であったといわれる。なお「灰吹法」と似たものとして、水銀を用いるアマルガム法がある。
- 1977年、作家杉本苑子は代官井戸平左衛門正明を題材にした小説「終焉」を発表。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 島根県/文化財課世界遺産登録推進室/石見銀山(日本語及び英語)
- 石見銀山(日本語) 学習教材・資料集あり