細川潤次郎
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細川 潤次郎(ほそかわ じゅんじろう、天保5年2月2日(1834年3月11日) - 大正12年(1923年)7月20日)は、幕末の土佐藩藩士・蘭学者で明治・大正時代の法学者・教育家・男爵。政治的要職としては司法大輔・貴族院副議長位であったが、日本の近代法導入の功績に関しては江藤新平と並んで高く評価されている。
土佐藩に仕える儒学者の家に生まれ、藩校でも優秀な成績を修めたが、幕末の緊張する内外の情勢に関心を持ち、長崎で蘭学を学び、続いて江戸の海軍操練所でも勉学に励んだ。また、この時期に中浜万次郎の知遇を得て英語も併せて学ぶようになった。帰国後、吉田東洋にその才覚を認められて山内容堂の侍読及び藩校教授として洋学を教えた。また、福岡孝弟らとともに土佐藩の新しい藩法である「海南政典」・「海南律例」の編纂に参加する。
明治政府に出仕して、新聞紙条例・出版条例・戸籍法の起草に参加する。その深い法律知識を見込まれて民部省に入った。1870年に平民に苗字を許す規定を提案したのは細川である。続いて同省から分離した工部省に移る。翌年にはサンフランシスコ博覧会の視察を目的にアメリカに渡り、そのまま同国に留学する。帰国後は文部省・元老院と移り、柳原前光・福羽美静・中島信行とともに「国憲取調委員」に任じられる。ここで彼は「法律起草のエキスパート」としての能力を発揮して、刑法・治罪法・陸海軍刑法・日本海令草案・医事法・薬事法起草の中心人物として活躍する。また、1881年には司法大輔となる。後に枢密院顧問、貴族院議員次いで同副議長などを務めたが、日本が近代的な法制を整えるにつれてその政治的な情熱は影を潜めて、やがて早々と政界を引退して教育界に「第二の人生」を求めた。
女子高等師範学校校長・学習院院長心得などを歴任する一方、『古事類苑』の編纂総裁や、新しい印刷・農業技術の紹介などに力を尽くして、晩年には文学博士・日本学士院会員の称号が贈られた。