細川頼之
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細川 頼之(ほそかわ よりゆき、元徳元年(1329年) - 元中9年/明徳3年3月2日(1392年3月25日))は南北朝時代から室町時代の武将、政治家、幕府管領である。幼名は弥九郎。右馬助、右馬頭、武蔵守。官位は従四位下。生年は享年から逆算、一部異なる年齢を記す資料も存在する。
足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領に就任して幕政を指導し、足利義満を補佐し、半済令の施行や南朝との和睦などを行う。1379年の康暦の政変で失脚、その後は赦免されて幕政に復帰する。
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[編集] 家系
父は細川頼春で、母は黒沢禅尼。兄弟に細川頼有、細川詮春、細川頼元、細川満之。妻は持明院保世の娘で、室町幕府3代将軍足利義満の乳母となっているため、義満と同年代の実子が早世していると考えられている。養子に細川基之。弟である細川頼元は頼之の養子として管領となり、細川氏は室町時代を通じて斯波氏、畠山氏とともに管領家となる。
[編集] 生涯
[編集] 生い立ちから管領就任まで
三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。足利家の内紛から発展した観応の擾乱における軍事行動が資料上の初見。足利尊氏に属した父の頼春に従い、1350年(正平5年/観応元年)には 阿波国守護の小笠原頼清が南朝に属したため派遣されている。1352年には京都の合戦で頼春が戦死し、頼之も軍を率いて京へ向かい、足利義詮に属して男山合戦に参加している。父の分国を継承し、阿波守護に任じられ、その後数年は阿波での南朝との戦い、領国経営に従事する。南朝に属して京都を脅かしていた足利直冬の勢力が伊予国(愛媛県)に及ぶと、1354年(正平9年/文和3年)には伊予の守護となり、小笠原氏や伊予の河野氏、国人勢力らと戦い四国における領国支配体制を固める。1356年(正平11年/延文元年)には中国管領となり、九州で勢力を持っていた直冬の追討を指揮する。
1362年(正平17年/貞治元年)には土佐国・讃岐国の守護となり、佐々木道誉らとの政争で失脚し、南朝に与した一族の幕府執事細川清氏を讃岐国宇多津(香川県綾歌郡宇多津町)で滅ぼす。この頃中国地方で大内弘世や山名時氏らが南朝から幕府方に帰服しており、時氏を説得工作に頼之も関わっているとされる。中国地方が安定すると頼之は中国管領を解任され、代わりに四国管領に任じられ、河野氏を追討して四国を統一する。幕府の管領となっていた斯波義将、父の斯波高経が道誉らの策謀で失脚(貞治の政変)すると頼之は幕府に召還され、道誉、赤松氏ら反斯波派の支持で1367年(正平22年/貞治6年)2代将軍足利義詮の死の直前に管領に就任する。
[編集] 管領時代の執政
管領となった頼之は佐々木道誉や赤松則祐をはじめ反斯波派の支持を得て、就任当時11歳の3代将軍足利義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立をに関わる。執政を開始した頼之は、内政面では倹約令など法令の制定、公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安半済令)を施行する。
また、後光厳天皇の皇位継承問題や、ばさらと呼ばれる華美な社会風潮を規制する。宗教界における比叡山など伝統的仏教勢力と南禅寺など新興の禅宗勢力の抗争では、幕府が南禅寺楼門の建造を援助すると比叡山が抗議し両宗派は衝突寸前になり、頼之は楼門を撤去させるがこれに反発した南禅寺の春屋妙葩と対立する。
対南朝政策では交渉を進め、楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功し、1370年には個人的交友もあった今川貞世(了俊)を九州へ派遣して懐良親王ら南朝勢力を駆逐させ、九州制圧を後援する。
[編集] 康暦の政変と晩年
頼之の施政は政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、義詮正室の渋川幸子や寺院勢力介入、南朝の反抗などで難航し、また今川貞世の九州制圧も長期化していた。頼之は辞意を表明して義満に退任を留めらて信任を回復する事も何度かあった。1379年(天授5年/康暦元年)、細川氏が紀伊における南朝征討に失敗すると、義満は山名氏清らに軍勢を与えて征討を行わせる。さらに頼之と斯波氏や土岐頼康に対して兵を与えると諸将は頼之罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極氏らが参加して将軍邸を包囲し、頼之の罷免を求めるクーデターである康暦の政変を起こす。義満から退去令を受けた頼之は一族を連れて領国の四国へ落ち、途中で出家を行う。後任の管領には義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策も覆される。
斯波派が望む頼之に対する討伐は義満が抑えるが、政変を知った河野氏が南朝から幕府に帰服し、斯波派と結んで頼之討伐の御書を受けて頼之と対抗する。頼之は管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化に務めており、これを利用して河野氏や細川清氏の遺児の正氏らを破り、1381年には河野氏と和睦して分国統治を勧める。弟の頼元が幕府に対して赦免運動を行い、1389年(元中6年/康応元年)の義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐国の宇多津で赦免される。1391年には斯波義将が管領を辞任し、頼之は義満から上洛命令を受けて入京する。後任の管領には頼之の弟の細川頼基が就任すると、頼之は政務を後見し、宿老として幕政に復帰した。1390年(元中7年/明徳元年)には備後国の守護となる。この年の明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦う。1392年に風邪が重態となり、3月に死去、享年64。
葬儀は義満が主催して相国寺で行われた。戒名は法号を用いて、永泰院殿桂巌常久大居士。
[編集] 人物
- 文化的活動、信仰
和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、頼之が詠んだ和歌が勅撰集に入撰している。また、軍事作法について記した書状も存在している。頼之は幼少に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたとされ、禅宗を信仰して京都に景徳寺、地蔵院、阿波の光勝寺などの建立を行う。
- 邸
京都での頼之の邸は、火事見舞いの記録などから六条万里小路(京都市中京区)付近と考えられており、幕府が花の御所(室町第、京都市上京区)へ移されるまでは出仕に近い場所であった。
- エピソード
- 幼少時には聡明さを見せ、また従兄弟の清氏と力比べをした話。
- 管領を辞任して出家すると言い、義満に引き止められる話。
- 評議の場で故意に義満の怒りを買い、将軍の権威を高めようとした話。
- 明徳の乱に従軍した折、寺院で供え物を拝借した話。
ほか
[編集] 資料・研究書・論文
- 『太平記』 南北朝時代を書く古典、軍記物語。頼之が管領に就任する巻を以って物語を終えている。また、頼之自身も編纂に携わっているとも言われる。
- 『細川頼之記』 内容の信憑性には疑問が持たれている。
- 『細川頼之補伝』 細川潤次郎著。明治に書かれた研究書。
- 『細川清氏と細川頼之』 猪熊信男著。
- 『細川頼之』 小川信著、人物叢書(吉川弘文館)。
[編集] 墓所・木像・肖像画
墓所は頼之が建立した寺である京都府京都市西京区の衣笠山地蔵院、山型の自然石が墓石として残されている。地蔵院には頼之の法体の肖像画や木像、頼之夫人の肖像画も所蔵されている。