細川高国
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細川 高国(ほそかわ たかくに、文明16年(1484年) - 享禄4年6月4日(1531年7月17日))は、室町時代の武将。室町幕府管領。細川氏の庶流である典厩家の出自で、父は備中守護の細川政春、細川政元の養子として京兆家に入る。兄弟に細川晴国。子に細川稙国、養子に細川氏綱、娘は北畠晴具室。
[編集] 伝記
明応2年(1493年)の明応の政変で幕政の実権を握った細川政元は、文亀元年(1501年)に政務を退くことを表明、高国は阿波守護家の細川澄元とともに養子に迎えられる。政元の養子には既に細川澄之がおり、新たに2人の養子を迎えたことで内部抗争が発生し、永正4年(1507年)には、政元は澄之派の刺客に暗殺される。澄之はさらに澄元を都から追うが、高国は細川澄元について澄之を討伐、家督は澄元が継承した。
永正5年(1508年)、亡命中であった前将軍足利義材(義稙)が周防の大内義興に擁されて上洛すると、高国はこれと結んで現将軍足利義澄や澄元を近江国に追放、澄元は阿波へ落ち延びた。高国は復職した将軍を義稙と幕政を義興とともに推戴し、細川氏家督と管領職を手中にして、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護職を兼務した。永正8年(1511年)、澄元が京へ進攻し将軍義稙や高国らを丹波へ追うが、前将軍義澄の急死により、澄元は船岡山の戦いで敗北し、再び阿波へ逃れる。
永正15年(1518年)、義興が領国へ帰還すると、高国は幕政を独占して将軍義稙と対立。義稙は大永元年(1521年)に阿波国へ出奔すると、高国は前義澄の遺子亀王丸(足利義晴)を播磨から迎え、将軍に擁立しようとする。阿波の澄元は将軍義稙と結び、国衆の三好之長らを率いて再び京へ進攻。高国は京を逃れ、近江の六角定頼の応援を得て反撃し、再び澄元を阿波へ追う。その後、澄元・之長らは阿波で死去し、高国は家督抗争に勝利。大永5年(1525年)4月には、出家して管領職を子の稙国に譲るが、稙国は10月に病死。
高国の従兄弟で丹波守護の細川尹賢は、高国の家臣香西元盛と対立し、元盛が謀殺される事件が発生する。元盛派の波多野稙通・柳本賢治らは、高国の仲裁の遅れを非難し、大永7年(1527年)、阿波の三好元長と呼応して挙兵。2月、高国は川勝寺の戦いに敗れ、将軍義晴と近江朽木谷へ逃れる。元長や将軍義晴の弟にあたる足利義維、澄元の遺児である細川晴元らを擁立し、堺公方を成立させる。高国は北畠晴具、六角定頼や越前の朝倉氏の後援を得て反撃を試みるが、享禄4年(1531年)6月、天王寺の戦いに敗れ、摂津尼崎で酒倉に隠れているところを発見されて自刃した。「絵にうつし石をつくりし海山を 後の世までも目かれずや見む」と言う辞世の句を、北畠晴具に送っている。