織田信安
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織田 信安(おだ のぶやす、大永2年(1522年)? - 天正19年10月24日(1591年12月9日?))は、戦国時代の大名。官位は伊勢守。父は織田敏信。妻は織田信秀の妹(秋悦院)。子に織田信賢、織田信家。三郎。伊勢守。常永。
幼名は三郎。岩倉城(現在の愛知県岩倉市)を居城として、尾張国上4郡を支配した織田氏の一族である。ただし、織田伊勢守家の出身者であり、織田信長とは別族である。
信長が弟の織田信行と家督をめぐって争うと、信安は信行を支持して信長に叛旗を翻した。しかし信行が討たれると形勢不利となり、永禄元年(1558年)の浮野の戦いで信長軍の前に大敗を喫する。このとき、家老の山内盛豊(山内一豊の父)が戦死したと言われている。しかも実子の信賢が信長を支持したため、信安は岩倉城から追放されることとなったのである。
その後、信安は美濃の斉藤義龍の家臣となって、なおも信長に抵抗したが、その都度に敗れた。やがて斎藤氏も信長の前に滅ぼされると、信安は京都に逃れた。
しかしやがて同族の誼から、信長より罪を許されて美濃国白銀に所領を与えられた。晩年は安土総見寺の住職になった。
天正19年(1591年)10月24日に死去した。法名:松岳院殿大渓玉甫大居士。