芹沢鴨
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芹沢鴨(せりざわ かも、芹澤 鴨、文政年(1826年)? - 文久3年9月16日もしくは9月18日(1863年10月30日))は、幕末の水戸藩浪士、新選組の筆頭局長。神道無念流剣術免許皆伝の剣客。
芹沢氏は常陸国芹沢村(現茨城県行方市)の芹沢城主の流れを汲む上席郷士であり、平姓で、平氏の中の板東平氏の一族で、常陸平氏の大掾氏一族の平清幹、平成幹の後裔。諱は光幹。
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[編集] 天狗党
幼名は玄太という。
芹沢光幹(芹沢玄太平光幹)は松井村(現茨城県北茨城市)の神官である下村祐斎の婿養子となり、下村継次と称した(木村嗣次との説もある)。水戸藩の尊皇攘夷である天狗党の前身である玉造組に参加し、万延元年(1860)に、横浜で攘夷を決行するため資金集めに奔走した。文久元年、藩の方針が転換し、天狗党の反対派閥、諸生党が台頭すると、玉造組は弾圧され、継次も捕縛され入獄した。死刑を待つ身だったが、文久2年、再度天狗党が政権を奪取したため、12月、大赦の令で出獄。この時に芹沢鴨を名乗った。
[編集] 新選組
文久3年(1863年)2月5日、清河八郎が発案した浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加、後に新選組の局長となる近藤勇ら試衛館派らとともに上洛する。京都では清河が浪士組を尊王攘夷組織としてを決行を主張すると、近藤らとともに反対し、京に残留する。浪士組と分裂し京に残った芹沢派と近藤派、その他合わせて24人は、京都守護職の松平容保に嘆願書を出し、会津藩御預かりという身分になった。
[編集] 暗殺
隊は、芹沢たち水戸派と、近藤たち試衛館派から成りたっていたが、芹沢の行状が会津藩には許容出来ないものとなり、朝廷より召取の沙汰が降りたことから近藤一派は、芹沢派を粛清する。水戸藩川瀬家文書によると、文久3年9月16日(もしくは18日の夜?)、壬生郷士の八木源之丞邸(京都市中京区)において寝込みを襲撃され、芹沢派の平山五郎や愛妾のお梅らとともに粛清された。暗殺は近藤派の土方歳三、沖田総司、藤堂平助、御倉伊勢武らが実行したと言われる。あるいは「新選組始末記」の八木為三郎の遺談によると、山南敬助や原田左之助がいたのではないかと記されている。その殺害から2日後の18日、芹沢たちの葬儀を神式に則り執行された。その一連の事項を20日、近藤は佐藤彦五郎に手紙を送っている。
一部文献では18日死亡説が流布しているが、昭和初期、「新選組始末記」(子母沢寛著)という小説によって固定化された説である。ちなみに八木為三郎の遺談にある18日は降雨と証言しているが、降雨のあったのは16日であり、矛盾する。
[編集] 人物
芹沢は色白で豪傑肌、一廉の人物といわれている。尊皇攘夷の念に強く、北野天満宮に「雪霜に 色よく花の魁て 散りても後に 匂う 梅が香」という句を記した額を献じたとされている。常に「盡忠報國の士、芹澤鴨」と刻まれた鉄扇を手にしていたと言われる。また絵がうまく子供たちから好かれていたという。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 浪士文久報国記事(PHP新選組日記より)
- 新選組水戸派読本~新選組を創った男・新選組読本~隊士外伝(いずれも玉造町観光協会発行)
- 新選組長芹沢鴨(河出書房新社「新選組人物史」所収)