荘子
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荘子(そうし、生没年は厳密には不明だが、紀元前369年 - 紀元前286年と推定されている)は、中国の戦国時代の宋国(現在の河南省)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。姓は荘。名は周。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。 「莊子」が本来の表記、日本の文部省の漢字制限(当用漢字、常用漢字)以後現表記となる。
荘子の思想は老子と同じく無為自然を基本とし、人為を忌み嫌う物である。しかし老子には政治色が色濃いのに比べ、荘子は徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢になっている違いがある。
荘子の著書と言われる『荘子』(そうじ)には、内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇があり、この中で内篇だけが荘子本人の手によるものと見られ、それ以外は弟子や後世の人の手によるものと見られている(異説あり)。実際、内篇に比べ外篇・雑篇は文章の点でも未熟であり、漢代になってから主導権を握った儒教に対する敵愾心が多く出過ぎており、無為の境地からは遠く離れたものとなっている。
荘子内篇は逆説的なレトリックが煌びやかに満ち満ちており、寓話を多く用い、読む者を夢幻の世界へと引きずり込む。
荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。どちらともわからぬ、どちらでもかまわない。」この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れている。
なお、荘子は孔子を批判しているとされているが、文章をよく読むと孔子を相当重んじており、儒家の経典類もかなり読んだ形跡がある。このことから、古来より、荘子は儒家出身者ではないかという説があり、内容も本質的には儒教であると蘇軾が『荘子祠堂記』に於いて論じているほどである。白川静は孔子の弟子顔回の流れを汲むのではないかと推定している。
老荘思想が道教に取り入られ老荘が道教の神として崇められる様になっているが老荘思想と道教の思想とはかけ離れているとされているが、これに反対する説もある。
[編集] 後世への影響
- 荘子は特に晋代に好まれた。竹林の七賢の一人阮籍は、もっとも荘子・老子を好んだと晋書に記されている。また、荘子のテキストが確定したのも晋代である。特に晋の郭象は、漢の時代の荘子テキストに、荘子の思想と異なるものが混じっていたために十分の三を削除して、内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇にまとめ、更に優れた注釈を加えた。
- 郭象注以外の主な注釈としては、唐の林希逸の『荘子口義』があり、また、封神演義の著者の一人とされている明の陸西星にも注釈書『荘子副墨』がある。日本では江戸時代に『荘子口義』が広く読まれ、明治時代に漢文大系が出版されると、漢文大系に入っている明の焦竑の注釈『荘子翼』が普及した。
- 老子と荘子の思想が道教に取り入られる様になると、荘子は道教の祖の一人として崇められるようになり、道教を国教とした唐の時代には、玄宗によって神格化され、742年に南華真人(なんかしんじん)の敬称を与えられた。また南華老仙とも呼ばれた。著書『荘子』は『南華真経(なんかしんきょう)』と呼ばれるようになった。三国志演義の冒頭に登場する南華老仙は、荘子のことである。
- 荘子は中国や日本の文学者に広く愛読され、李白・杜甫・蘇軾・魯迅・吉田兼好・松尾芭蕉などが影響を受けている。また、湯川秀樹は荘子を好み、学会の席上で荘子を論じたこともある。現代では福永光司の訳が有名である。