菅沼定芳
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菅沼 定芳(すがぬま さだよし、天正15年(1587年)-寛永20年1月17日(1643年3月7日))は、江戸時代前期の大名。伊勢長島藩の第2代藩主。丹波亀山藩の初代藩主。菅沼定盈の六男で、菅沼定仍の同母弟。母は定盈の継室、桜井松平家次の娘。幼名、向丸。はじめは定好といった。織部正。
天正15年(1587年)三河野田にて出生。慶長9年(1604年)から徳川家康に仕え、家康が隠居した後は徳川秀忠に仕えた。慶長11年(1606年)嫡兄の定仍が死去。他にも相続候補の兄・定成がいたが秀忠の御手水番を勤めた点を考慮されたため、伊勢長島藩の家督を継いだ。慶長12年(1607年)生母・普巌院が死去。定仍・定芳らの12人いた兄弟姉妹は全て同母という。慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、武功を挙げた。元和7年(1621年)近江膳所に加増移封の3万1千石。寛永11年(1634年)丹波亀山藩へ加増移封の4万1千石。寛永20年(1643年)正月17日、57歳で死去。戒名、大虚院殿無参円徹大居士。
後を嫡男の菅沼定昭が継いだ。