蓋鹵王
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蓋鹵王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 개로왕 |
漢字: | 蓋鹵王 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
こうろおう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
ケーロワン |
ラテン文字転写: | Gaero-wang |
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蓋鹵王(こうろおう、韓国語ではケーロワン 生年不詳 - 475年)は漢城時代最後の百済王(在位455-475年)。毗有王長子。(毗は[田比])日本書紀によれば加須利君、中国名は余司もしくは余慶。
蓋鹵王は前王の政策を継承して倭国と新羅と同盟し、高句麗と戦った。
461年頃、弟の軍君昆伎君を倭国に人質として送りよしみを通じた。日本書紀によれば、昆伎君は、蓋鹵王の婦人を貰う事を条件としたが、婦人は既に妊娠しており、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。筑紫の加羅嶋(かからのしま)に来たところ武寧王が産まれた。武寧王墓誌より461年とする。
472年には北魏に遣使して高句麗挟攻を提案したが、入れられなかった。
475年に高句麗の長寿王によって首都・漢城を攻撃され、戦死した。これ以後、百済の都は熊津(現在の忠清南道公州)に南遷することになる。