藤原敏行
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藤原 敏行(ふじわら の としゆき、生年未詳 - 延喜7年(907年))は、平安時代初期の歌人、書家。没年は延喜元年(901年)説もある。
父は藤原富士麿(陸奥出羽按察使)、母は紀名虎の娘。妻は紀有常の娘(在原業平室の姉妹)。子に季方、有快、伊辛、伊衡、伊望など。藤原南家に生まれ、官位は従四位上右兵衛督に至った。三十六歌仙の一人で、家集に「敏行集」がある。書は三筆の一人であり、神護寺の国宝・梵鐘の銘文は敏行の書である。
『宇治拾遺物語』によれば、敏行は、多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りも書いたが、魚を食うなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。
[編集] 代表歌
- すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(古今和歌集、百人一首18、)
- 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
- 白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢに染むらん