藤戸の戦い
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藤戸の戦い | |||
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戦争: 治承・寿永の乱 | |||
年月日: 1184年(寿永3年/治承8年)12月7日 | |||
場所: 備前国 藤戸 (現 倉敷市) | |||
結果: 源氏軍の勝利 | |||
交戦勢力 | |||
源氏 | 平氏 | ||
指揮官 | |||
源範頼 | 平行盛 | ||
戦力 | |||
2万~3万騎 | 500艘 | ||
損害 | |||
不明 | 不明 | ||
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藤戸の戦い(ふじとのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年12月7日(1184年)に備前国藤戸で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。藤戸合戦、児島合戦とも言う。
[編集] 経過
1184年2月の一ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れた。平氏が西進した理由は、瀬戸内方面へ勢力を伸ばしこれを経済基盤としており、備前・備中などの豪族も大半が平氏家人となっており、これを頼みにした為である。
現在の藤戸周辺は干拓により陸地となっているが合戦の当時は海に島が点在している状態であった。平氏は備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう、倉敷市粒江)に陣を構えていた。また、源氏は幅約500mの海峡を挟んだ本土側(現在の倉敷市有城付近)に陣を構えた。 前年の水島の戦いで敗北を喫していた源氏軍は海戦の弱さを露呈しており、対岸の平氏軍を攻めあぐねていた。
源氏軍の佐々木盛綱は、土地の若者から対岸へつながる浅瀬の所在を聞いた。翌日、部下数騎を率いて児島の藤戸へ上陸し先陣の功を打ち立てた。これに源氏軍本体が続き不意を衝かれた平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れた。
[編集] 謡曲「藤戸」
浅瀬の存在を聞いた盛綱は先陣の功を他人に奪われる事を恐れ、教えた若者を殺害したという。このエピソードを元に室町時代に世阿弥により作られた。
謡曲の内容は以下の通りである。
- 前段:盛綱はこの戦いの功績で児島に所領を与えられた。領地に赴いた盛綱に殺害された若者の老いた母親が恨みを訴える。
- 後段:殺害を後悔した盛綱は若者の法要(管弦講)を営む。法要が行われていた明け方近くに若者の亡霊が現れる。若者は盛綱に祟りを及ぼそうとするが、盛綱の供養に満足し、やがて成仏する。
[編集] 関連項目
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