西本願寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本願寺 | |
---|---|
総御堂(国重文) |
|
所在地 | 京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル |
山号 | |
宗派 | 浄土真宗本願寺派本山 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 文永9年(1272年) |
開基 | 覚信尼 |
別称 | 西本願寺 |
文化財 | 書院・飛雲閣他(国宝) 総御堂・絹本著色聖徳太子像他(国重文) 世界遺産 |
西本願寺(にしほんがんじ)とは、京都府京都市下京区にある浄土真宗の寺院。浄土真宗本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は本願寺である。
目次 |
[編集] 歴史
宗祖親鸞聖人入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272年)に現在の東山区林下町(知恩院三門北の崇泰院あたり)に廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、三代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後、各地に寺基を移転、天正19年(1591年)豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、天満にあった寺基より現在の本願寺の寺基である京都市下京区堀川六条に移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。
本願寺の教如が、徳川家康によって本願寺の東に寺領を与えられ、1602年に本願寺が二つに分かれた際、十二代教如となり開いた寺を東本願寺と呼んだため、それまでの本願寺は「西本願寺」と通称されるようになった。
(東西に分裂以前の歴史の詳細は本願寺の項目を参照)
幕末期には京都を守る剣客集団新選組の本拠地ともなった。 ちなみに現在まで400年以上に渡り移転することはなかった。
[編集] 文化財
境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が多く残されており、平成6年(1994年)12月には、古都京都の文化財の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建物の配置と構造は真宗建築の典型で、親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が本堂よりも大きく造られている。寛永13年(1636年)に建立された御影堂は、現在「寛政の大修復」寛政12年(1800年)以来2回目の「平成大修復」を行っている。
[編集] 国宝
- 書院(対面所及び白書院)
- 北能舞台
- 黒書院及び伝廊2棟
- 飛雲閣
- 唐門
- 紙本墨画親鸞聖人像(鏡御影) 附絹本著色親鸞聖人像(安城御影)・ 絹本著色親鸞聖人像(安城御影副本)
- 観無量寿経註 - 親鸞筆
- 阿弥陀経註 - 親鸞筆
- 熊野懐紙(後鳥羽天皇宸翰以下十一通)附伏見宮貞敦親王御添状1巻、飛鳥井雅章添状1巻
- 三十六人家集37帖、附後奈良天皇宸翰女房奉書1幅
[編集] 重要文化財
建造物
- 総御堂(本堂または阿弥陀堂)
- 大師堂(御影堂)
- 玄関・浪之間・虎之間・太鼓之間 1棟
- 能舞台 附橋掛
- 浴室(黄鶴台)附廻廊
- 鐘楼
美術工芸品
- 絹本著色聖徳太子像
- 紙本著色親鸞・如信・覚如三上人像
- 紙本著色善信上人絵(琳阿本) 2巻
- 紙本著色慕帰絵詞 画隆章、隆昌、久信筆 10巻
- 絹本著色雪中柳鷺図(伝趙仲穆筆)
- 銅鐘(梵鐘)
- 歎異抄 2巻 蓮如書写奥書
- 教行信証 6冊
- 唯信抄 親鸞筆
- 浄土三経住生文類 自筆本(略本)
- 尊円親王詩歌書巻 自筆本(鷹手本)
- 版本浄土論註 上下 2帖 建長八年親鸞加点奥書
- 伏見天皇宸翰歌集(九十九首)
- 栄花物語 15帖
- 恵信尼自筆書状類 覚信尼宛 (十通)
- 証如上人極官関係文書 3幅、2巻
- 親鸞自筆書状類(四通) 2巻
- 天文日記(光教日記)自筆本 56冊、11巻
- 本願寺御影堂留守職歴代譲状(十八通)12巻
[編集] 門主
[編集] 別院(主なもの)
- 築地別院(築地本願寺) - 1617年(元和3年)に第12代門主准如上人が西本願寺の別院として建立。
- 鷺森別院(鷺森本願寺) - 1467年(文明8年)に第8代門主蓮如上人が建立。
- 津村別院 -
- 堺別院 -
- 神戸別院 -
- 広島別院 -
- 金沢別院 -
- 鹿児島別院 -
- 名古屋別院 -
[編集] アクセス
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 本願寺(西本願寺)