谷田部藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
谷田部藩(やたべはん)は、常陸国(現在の茨城県つくば市谷田部)に存在した藩。藩庁は谷田部陣屋。
目次 |
[編集] 藩史
細川藤孝の次男で細川忠興の弟である細川興元は徳川氏に仕え、慶長15年(1610年)7月27日に下野国芳賀郡茂木に1万石を与えられて大名となり、諸侯に列した。これが茂木藩の立藩である。興元は大坂の陣で戦功を挙げたため、元和2年(1616年)6月26日に常陸国筑波郡・河内郡で6200石を加増され、陣屋を谷田部藩に移したのである。これが谷田部藩の立藩である。
第3代藩主・細川興隆の代である万治3年(1660年)に検地が行なわれて藩政の基礎は固められた。しかし享保年間から谷田部では大風雨による洪水や飢饉、旱魃や熱病と天災が相次いで凶作が続き、江戸の藩邸が焼失することも相次いで財政は急速に悪化した。
天保4年(1833年)には年貢減免を求める百姓一揆が起こった。このような藩の財政を示すものとして、天保5年(1834年)の負債額は金で12万7000両、米で2600俵というとんでもない負債額であった。
このため第7代藩主・細川興徳は二宮尊徳の報徳仕法を手本とし、藩医の中村勧農衛を登用して財政再建を主とする藩政改革を行なおうとしたが、藩内部で仕法の反対を求める保守派の動きや興徳が藩政改革をはじめてからわずか3年後の天保8年(1837年)9月16日(異説あり)が死去したこともあって、藩政改革は短期間で挫折する。 第8代藩主・細川興建も藩政改革を行おうとしたが失敗している。幕末期においても領内では凶作が相次ぎ、一揆が絶えなかった。
谷田部藩は周りを譜代藩に囲まれた外様小藩のため苦労も多く、土地も痩せて凶作が多かったため、谷田部藩は肥後細川家の熊本藩54万石からたびたび借金などの援助を受けている。真偽は定かでないが、興元の立藩に当たって徳川では10万石を用意したが不仲の兄・忠興が反対したために2万石弱になったと谷田部藩では伝えられており、熊本藩では谷田部藩への貸金は返ってこないものと諦めていた。
最後の藩主となった細川興貫は戊辰戦争で新政府に与した。翌年の版籍奉還で興貫は藩知事となる。
明治4年(1871年)2月8日、興貫は陣屋を茂木に移したため、以後は茂木藩となった。ちなみに同年7月の廃藩置県で谷田部は新治県となり、そして茨城県に編入されたのである。
[編集] 歴代藩主
[編集] 細川(ほそかわ)家
外様。1万6200石。
- 細川興元(おきもと)<従五位下。玄蕃頭>
- 細川興昌(おきまさ)<従五位下。玄蕃頭>
- 細川興隆(おきたか)<従五位下。豊前守>
- 細川興栄(おきなが)<従五位下。長門守>
- 細川興虎(おきとら)<従五位下。玄蕃頭>
- 細川興晴(おきはる)<従五位下。玄蕃頭>
- 細川興徳(おきのり)<従五位下。長門守>
- 細川興建(おきたつ)<従五位下。長門守>
- 細川興貫(おきつら)<従五位下。玄蕃頭。後に正三位>