赤松則祐
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赤松 則祐(あかまつ のりすけ(そくゆう)、正和3年(1314年) - 応安4年/建徳2年11月29日(1372年1月13日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。赤松則村(円心)の3男。子に赤松義房、赤松義則、赤松満則、赤松義祐、赤松持則など、娘は細川頼元の室。兄弟に赤松範資、赤松貞範、赤松氏範、赤松氏康がいる。
[編集] 倒幕戦争時
1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げ挙兵する(元弘の乱)。則祐は比叡山延暦寺に入っており、その縁によって後醍醐天皇の皇子で天台座主であった護良親王に付き従い、熊野などで転戦する。1333年、護良親王の使者として倒幕の令旨を父・円心に届け、赤松氏は播磨国で挙兵する。その後、父に従って東上し、京都の六波羅探題を攻撃する。
則祐には武勇伝が多く、『太平記』にもいくつか記されている。熊野や十津川では、護良親王を守って善戦。父・円心に従っての高田兵庫輔頼重との戦いにおいては、後方撹乱を実行し、西条山城に突入して勝敗を決めた。また、洛中での桂川の戦いでは、増水した桂川に単騎で踊りこみ、敵陣一番乗りを果たした。
[編集] 南北朝時代
建武政権下において、足利尊氏が中先代の乱平定後に後醍醐天皇に反旗を翻す。後醍醐天皇方の北畠顕家や楠木正成に敗れた尊氏が円心を頼って播磨に逃れると、円心は九州落ちと光厳上皇の院宣をもらうことを進言した。尊氏はこれを飲み、九州へ落ち延びた。赤松氏の役目は後醍醐天皇方を播磨で足止めし、尊氏の再起の時間を稼ぐことで、円心は播磨の広範囲に戦線を展開、則祐は城山城(感状山城)で第二戦線の大将を命じられる。後醍醐天皇方によって書写坂本城を中心とする第一戦線が崩され、第二戦線の支城も次々に陥落されるなか、則祐は奮戦し城山城を守り抜く。白旗城下で激戦が展開されている最中に九州に落ちていた尊氏のところへ訪れ、東上を促す。
1350年に父・円心が没し、長兄・範資が総領(当主)となるが、1351年に範資が急死、則祐が総領となる。1355年には、松田氏に代わって備前守護に任じられた。1361年、幕府執事から失脚した細川清氏が南朝に属して楠木正儀らと京都を占領、則祐は幼い足利義満を播磨国の白旗城へ避難させた。初期の室町幕府において2代将軍足利義詮や管領の細川頼之を補佐した。