足利義視
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足利 義視(あしかが よしみ、永享11年閏1月18日(1439年3月3日) - 延徳3年1月7日(1491年2月15日))は、室町時代の武将である。6代将軍足利義教の子、母は日野重光の娘の日野重子。7代将軍足利義勝・8代将軍足利義政の同母弟。足利政知は異母弟。正室は日野重政の娘、子は足利義材。天台宗浄土寺門跡、名は義尋(ぎじん)。3代将軍足利義満の孫にあたる。
出家して浄土寺の門跡となる。1464年(寛正5)に後継者がなかった兄・義政に請われて僧侶から還俗して、「義視」を名乗る。細川勝元を後見人として次期将軍を約束されて義政の妻・日野富子の実妹を正室に迎えたが、1465年、義政と富子の間に足利義尚が誕生すると富子は義尚の将軍後継を望み、弟夫婦と対立するようになった。9月には義視謀反の噂が立つが、義視は勝元に無実を訴え、義尚の乳父であった伊勢貞親が讒訴の罪を問われ、貞親派が失脚する文正の政変が起こる。
1467年(応仁元)には足利将軍家の家督相続問題と畠山氏、斯波氏の家督相続問題などが関係して応仁の乱が発生する。義視ははじめ勝元が率いる東軍に属したが、8月に周防の大内政弘が上洛すると伊勢の一色氏、北畠氏のもとへ逃れる。68年には義政の説得で伊勢から帰京するが、義政と対立して室町亭を脱走、山名宗全(持豊)の西軍、西幕府の将軍に奉じられた。宗全の死後、75年には義政に恭順する。
1489年(延徳元)の足利義尚の死後、表向きは兄夫婦と和解し、義視の子足利義材(のち義稙と改名)が10代将軍に就任したが、実際には日野富子とは割が合わず邸宅を破壊したり領地を差し押さえたりした。1491年に死去、享年52。同年、贈従一位太政大臣。
法名:大智院久山道存
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1464年(寛正5)12月2日、還俗。従五位下に叙し、左馬頭に任官。
- 1465年(寛正6)1月5日、従四位下に昇叙。左馬頭如元。11月20日、元服し、義視を名乗り、禁色賜る。11月25日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。12月17日、従三位に昇叙し、権大納言に転任。
- 1466年(文正元)1月6日、従二位に昇叙。権大納言如元。
- 1467年(文正2)1月5日、正二位に昇叙。権大納言如元。8月23日、伊勢国に出奔。
- 1468年(応仁2)12月、解官。
- 1489年(長享3)14月27日、出家。
- 1490年(延徳2)7月5日、准后宣下。
- 1491年(延徳3)1月7日、死去。2月24日、贈従一位太政大臣。