鎮西探題
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鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代に幕府が九州の統括のために設置した機関である。行政、訴訟(裁判)や軍事などを管轄した。
1271年(文永8年)、1281年(弘安4年)の元寇の後に設置される。1293年(永仁元年)に9代執権北条貞時のころ北条兼時、名越時家が派遣されたのが創始で、それまで設置されていた鎮西談議所は廃止される。1296年(永仁4年)の北条実政から1人体制となる。1299年(正安元年)には評定所、引付衆が設置され訴訟裁断権を持つ。1333年(元弘3年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、鎮西探題の北条英時は呼応した少弐貞経や大友貞宗、南九州の島津貞久らにより攻められ滅亡する。
鎮西探題が問状や召文、訴訟関係など御家人に対して発給する文書は形式により鎮圧御教書、鎮圧下知状と呼ばれる。
足利幕府(室町幕府)は九州統治のため、鎮西探題に習って九州探題を設置する。