韓非
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韓非(かんぴ 紀元前280年頃? - 紀元前233年)は中国戦国時代の思想家。法家の代表的人物。韓非子とも呼ばれる。元来は単に韓子と呼ばれていたが、唐代の詩人韓愈を韓子と呼ぶようになると韓非子と呼ぶことが一般化した。
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[編集] 生涯
韓非の生涯は司馬遷の『史記』「老子韓非子列伝第三」および「李斯伝」などによって伝えられているが、非常に簡略に記されているに過ぎない。『史記』によれば、出自は韓の公子であり、後に秦の宰相となった李斯とともに荀子に学んだとされ、これが通説となっている。なお、『韓非子』において荀子への言及がきわめて少ないこと、一方の『荀子』においても韓非への言及が見られないことから、韓非を荀子の弟子とする『史記』の記述の事実性を疑う見解[1]も一部にあるが、いずれにしろ、その著作である『韓非子』にも『戦国策』にも生涯に関する記述がほとんどないため、韓非の生涯について詳しいことはわからない。
荀子のもとを去った後、故郷の韓に帰り、韓王にしばしば建言するも容れられず鬱々として過ごさねばならなかったようだ。たびたびの建言は韓が非常な弱小国であったことに起因する。戦国時代末期になると春秋時代の群小の国は淘汰され、七国が生き残る状態となり「戦国七雄」と呼ばれたが、その中でも秦が最も強大であった。とくに紀元前260年の長平の戦い以降その傾向は決定的になっており、中国統一は時間の問題であった。韓非の生国韓はこの秦の隣国であり、強い影響下にあって、『韓非子』「存韓」編[2]によれば、「さらに韓は秦に入朝して秦に貢物や労役を献上することは、郡県と全く変わらない」といった状況であった。
故郷が秦にやがて併呑されそうな勢いでありながら、用いられない我が身を嘆き、自らの思想を形にして残そうとしたのが現在『韓非子』といわれる著作である。
韓非の生涯で転機となったのは、隣国秦への使者となったことであった。秦で、属国でありながら面従腹背常ならぬ韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣されたのである。以前に韓非の文章(おそらく「五蠹」編と「孤憤」編)を読んで敬服するところのあった秦王はこのとき、韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため韓非は牢につながれ、獄中、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという。以上が『史記』の伝えるところである。他方『戦国策』「秦策」では、韓非が姚賈という秦の重臣への讒言をしたために誅殺されたという異聞を記す。
[編集] 思想
韓非の思想は著作の『韓非子』によって知られる。韓非の著作として確実と考えられるのはまず『史記』に言及されている「五蠹」編と「孤憤」編で、さらに「説難」編・「顕学」編である[3]。その中心思想は政治思想で、法実証主義の傾向が見られる。
[編集] 実証主義
「顕学」編では儒家と墨家の思想が客観的に真実であるかどうか検証不可能であることを指摘して、政治の基準にはならないと批判している。韓非によれば、法律とその適用を厳格にしさえすれば、客観的に政治は安定する。「五蠹」編では、儒家の言葉はあやふやでその真理として掲げている「知」や「賢」といった道徳的に優れた行為や言葉は誰でも取りうるものではなく知りうるものでもないという。よってこのような道徳性を臣下に期待するのは的はずれで、君主は法を定め、それに基づいて賞罰を厳正におこなえば、臣下はひとりでに君主のために精一杯働くようになるという。
韓非によれば、政治の基準は万人に明らかであるべき[4]で、それは制定法という形で君主により定められるべきものである。また法の運用・適用に関する一切は君主が取り仕切り、これを臣下に任せてはならない。
[編集] 歴史思想
韓非の歴史思想については、「五蠹」編に述べられているところに依拠して説明する。
韓非によれば、古の時代は今とは異なって未開な状態にあり、古の聖人とあがめられている人物の事跡は当時としては素晴らしかったが、今日から見ると大したことはない。したがって今日から見て大したことがない聖人の政治を、今の世の中の政治にそのまま適用できると考えている者[5]は本質を見誤っている。時代は必然的に変遷するのであり、それに合わせて政治も変わるのである。ここには過去から未来へと変化するという直線的な歴史観、さらに古より当今のほうが基本的に複雑な社会構成をしているという認識、進歩史的な歴史観を見ることができる。この思想は荀子の「後王」思想を継承しているもので、古の「先王」の時代と「後王」の時代は異なるものであるから、政治も異なるべきという考えを述べているものを踏襲していると見られる。
[編集] 著作
韓非子を参照のこと。
[編集] 参照文献
- 太田方注、服部宇之吉校訂『韓非子翼毳』冨山房、1911年
- 金谷治訳注『韓非子』1~4、岩波文庫、1994年
- 貝塚茂樹著『韓非』講談社学術文庫、2003年
- 西野広祥ほか訳『中国の思想 1 韓非子』徳間書店、1964年
- 金谷治著『中国思想を考える』中公新書、1993年
- 東京大学中国哲学研究室編『中国思想史』東京大学出版会、1952年
- 長尾龍一著『古代中国思想ノート』信山社、1999年
[編集] 荀子に関して
- 内山俊彦著『荀子』講談社学術文庫、1999年
- 重澤俊郎著『周漢思想研究』大空社、1998年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ↑ 貝塚茂樹による。
- ↑ 韓王を弁護するために秦に赴いた韓非が上表したとされる文章と李斯の反駁文、さらにそれに対する韓非の反駁文で成り立つ。ただしこの編はおそらく韓非自身の著作ではないと考えられている。太田方は「初見秦」編とともにこれを『韓非子』の本編から外す。金谷治もおそらく韓非その人の著作ではないとしている。
- ↑ 金谷治による。
- ↑ 「且世之所謂賢者、貞信之行、所謂智者、微妙之言也。微妙之言、上智之所難知也。今為衆人法、而以上智之難知、則民無従識之矣」"また世にいう「賢」というのは誠実な行いのことで、「知」というのは繊細な機微に基づく言葉である。このような微妙な言葉は優れた知者にさえ難解である。一般の人々のための法にこのような難解な言葉を使えば、一般の人々がその内容を理解できるはずもない。"(「五蠹」編)
- ↑ 具体的には儒者を指す。