駄菓子屋
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駄菓子屋(だがしや)は、主に小学生ないしそれ以下の年齢層の児童を対象とした駄菓子・玩具の販売店である。
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[編集] 概要
駄菓子屋は、児童への菓子・玩具の販売を目的とした商店であり、日本では1980年代以前の町村では普遍的に見られた業態である。この業態の成立は古く、その発祥もはっきりしない。ただ、明治・大正の時代から度々文学作品などにも登場している事から、日本が工業化を始めて以降に、次第に数を増やしたようだ。
その大半は個人経営であり、何らかの商売(タバコ屋や文具店・雑貨商・軽食堂など)のついでに営業していた店も多かった。なお日本国外の似たような業態には、米国のドラッグストアやヨーロッパのキオスク(英:Kiosk)が挙げられる。
営業時間は子供らが遊び歩く「日の出から日没まで」ではあったが、その一方で商店がその家の居間と障子一枚隔てて隣接している事も多く、午後7時前後までは営業している場合もあった。店そのものが住居との差異が不明確だったのである。店先の精々3畳程度の土間には、商品陳列用の棚が設置されていたほか、店の中央に置かれた木箱の上にも、商品や菓子などの入った箱やビンなども見られた。また天井から下げたフックに引っ掛けられて販売されている商品も少なくなかった。
これらの店で扱われていた菓子は駄菓子と呼ばれ、郷土菓子などもあったが、専門メーカーによる製品も流通しており、この中には定番とも言える幾つかの製品群も存在する。必ずしも衛生的だとは言えない商店の店先で販売されるために、一つずつ丁寧に包装されているか、あるいは多少は不衛生な店頭でも埃を被らないよう、大きなガラスびんやプラスチックケース・ビニール袋などに入れられて販売されていた。また古くは、木箱の上にガラス板をはめ込んだケースも利用されていた。
子供向けの商品が多いながら、自動販売機やコンビニエンスストアの無かった時代には、清涼飲料水やアイスクリームといった涼を取るために利用する大人もいた。また中学校・高校の近くにある駄菓子屋の場合は、休み時間に学校から抜け出して来たり部活の途中で抜け出してきた生徒が、菓子パンや清涼飲料水を買うために利用する事もあった。そのような立地条件の店では、この学生らによる需要に特化した品揃えの店も見られた。パン屋そのものが駄菓子屋化していた店も存在する。
スペースインベーダー流行時の1970年代末にはこれを設置する店が出たほか、1980年代にはアーケードゲーム(一回20~30円の、しかもROMをコピーしたような贋物)が設置された店もあった。(→ゼビウス)
[編集] 商売の形態
この業態では、主にセルフサービスとなっており、客である子供らは商品を手にとって店主に声を掛け、店主がそれらを合算して値段を伝え、その金額を子供らが支払うというものである。大抵はたくさん買うと商品を入れる紙袋をくれたが、店によっては店主などが片手間に新聞紙で作った袋が使われていた。
このセルフサービスのため、誉められた行為ではないが中には(スリルを求めて?)万引きを働く児童もいなかった訳ではない。しかしそこは店主も心得たもので、ほとんどの客の顔と名前は覚えていたし、また最寄の学校の電話番号も知っていたので、万引きがばれると後日学校に親が呼び出され、その帰る道すがら万引きをした子供が親にこってり叱られる…なんていうのも良くある話だったようだ。地域社会に根差した商法ならではの情報網もあったという。
商品は駄菓子問屋や玩具問屋経由で仕入れられた物で、これらは概ね6掛け~8掛けで仕入れられ、商品単価も極めて安いため、とにかく薄利多売をするしかなかった。各々の駄菓子屋の経営状況を知る複数筋の情報では、「趣味でもなければやってられない(ほぼ収支はとんとん・赤字が出ないだけマシ)」という有様で、駄菓子屋といえば粗末な店舗に山盛りの商品というのが一般的である。
[編集] 子供たちの社交場
これらの店舗は、子供らの文化に共通基盤を与えていた。これらでは、年齢層の違う子供らも一緒になって利用するため、そこには一種のコミュニティが成立したほか、店の屋号以外に世代を超えて利用された愛称(中にはとんでもない呼び名も)もあり、同じ地域で育った者なら共通認識やランドマークとして店の愛称が出る程であった。
- 小学校の近くに店舗は大抵存在しており、学校から帰宅時に立ち寄ったり、塾の帰り道にお菓子を買ったりと、何かのついでに寄ることができた。
- 専門に駄菓子屋をやっている店では、店番はお爺さんやお婆さんなど高齢者が定番であったほか、おばさん(中年女性)のやっている店もあった。また店先でこのお婆さんが飼っている犬か猫が昼寝していることや、お婆さん自身が昼寝している事もままあった。
- くじ引きやお菓子が、子供が肩叩きや草むしり・お使いのお駄賃にもらえる僅かばかりの金銭で買える価格で多数存在した。現在の金銭感覚でも、500円に相当する貨幣を持っていけばお大尽(友達数人に奢ってもお釣りが来る)ができた。
- 個性的な駄菓子屋さんでは、お店の一角に調理コーナーがあり、焼き蕎麦やお好み焼き・玉子焼きなど軽食を作ってくれるお婆さんが居た駄菓子屋は人気があった。
- アーケードゲームや、古くは簡単なメダルゲームなどを店頭に設置する店も多かった。クジの中には少なからずゲーム要素を含む物も存在した(輪投げなど)。
また、この中では子供の文化の中で特別の位置付けも見られ、駄菓子屋にまつわる逸話も多い。
- この当時、子供が紙幣を貰うなんて言ったら毎月の小遣いかお年玉か、あるいは何か特別な事情でもなければありえない事だったため、駄菓子屋で紙幣を出してお釣りを貰うなんて言ったら、何処のお坊ちゃんかと言われてしまうほどだった。また普段小銭を握り締めて来ていた子が、いきなり紙幣を出すと「何処で盗んだんだ」と怪しまれる事すらあった。
- 駄菓子屋に売られている商品は安いため、中には合成着色料などを多用した製品も少なからずあった一方、衛生面でも難があった。このため上流家庭や躾の厳しい家庭では、駄菓子屋に寄ることを制限するケースもみられた。このため制限された子の中には、一種の憧憬を抱く者もいた模様だ。
- 子供らが集まる場所であったため、近所で子供の落とし物があると、駄菓子屋に持ち主を尋ねる張り紙が出ることがあった。
[編集] 取り扱い品目
駄菓子類の商品は各々、2000年代現在の金銭感覚で20~100円程度、当時の金額では昭和一桁で「何銭」、戦後~高度経済成長以前は「何銭~数円」、高度経済成長期~バブル期前の頃では「10円~50円」といったところである。子供が何かのお手伝い数回分で貰ったお駄賃を握り締めて行けば、1~2時間は面白おかしく楽しめるだけのお菓子・玩具が買えた。
販売している菓子でも安価な物に関しては、駄菓子の項に詳しい。清涼飲料水やアイスクリームなどは大手メーカーの製品と、駄菓子専門メーカーの安価な物が平行して販売されており、菓子類も一部大手メーカーの製品が置かれていた。
駄菓子屋アイテムで大人気だったのが、お店の前に有ったガシャポン。本格的に流行し始めたのも70年以降と思われる、その代表的なメーカーにコスモスがあった。70年代の人気アイテムにスーパーカー消しゴム、スライム「パチもの」などが有った。
当時の人気アニメ、野球選手などのクジ引きブロマイドなども人気があった。このほかにも子供の射幸心を狙ったくじ引き系アイテムも多く、「アイスクリームガム」という製品では、一回10円でガムを買って、当りが出ると何処のメーカーのアイスクリームでも指定金額内の範囲が貰えた。ガム・アイスクリーム・チョコレートといった菓子類でも、当り付きといった要素が多く見られた。
玩具類では銀玉鉄砲や花火(カンシャク玉や爆竹・ロケット花火から花火セットまで)のほか、独楽やめんこ・竹とんぼ・風船/水風船といった素朴な物、あるいは「スパイセット」や「昆虫採集セット」と名付けられたセット物、余り高価ではないプラモデルなど多岐にわたる。郷土玩具に類するものも含まれる場合がある。
[編集] 現在の駄菓子屋の状況
駄菓子屋は1980年代より減少傾向が著しく、小学校近辺にある子供を相手にした店などは少子化の影響や子供たちの遊びに対する嗜好が変わり、あるいは子供らが経済的に豊かになったことや、衛生的で商品も豊富なコンビニエンスストアの増加、また駄菓子そのものが「程度の低いお菓子」として児童の保護者らに嫌われたことにも絡み、また店舗も後継者不足にもよって、街中のお婆さんが営む駄菓子屋さんはかなり減少している。ただ、この時代に多感な年齢だった者の中には、同業態に思い入れを示す者もおり、様々な動きも見られる。
- 当時子供だった大人達があの当時を懐かしみ、懐古趣味も手伝って取り扱いをする店舗も変化している。駄菓子の購入に関しては、ネット通販で買い求めたり、大型ショッピングセンター、コンビニに至るまで取り扱いを始め、懐古ブームにも乗り、人気定番アイテムとして現在でも入手は可能である。またこの懐古ブームに乗った「駄菓子屋チェーン店」の動きも見られる。
- 駄菓子を扱う問屋などが軒を連ねる場所として、東京の蔵前・川越の菓子屋横町・名古屋の明道町・大阪の松屋町などがあり、店舗によっては小売りも行っている。なお以前は東京都荒川区の日暮里にもあったが、駅周辺の再開発計画による駅ビル建築に伴い、その姿は消えてしまった。
[編集] 関連項目
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