駿河国
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駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、東海道に位置する。現在の静岡県の中部と北東部に当たる。駿州(すんしゅう)と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、中国。
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[編集] 歴史
[編集] 古代
駿河は当初は珠流河と表記し、珠流河国造(富士)がいた。7世紀に、廬原国造(清水)の領域と併せて駿河国を建てた。この時の領域は、現在の静岡県の中部と東部で、伊豆半島や伊豆諸島を含んでいた。なお、「駿河」の地名の由来は、富士川の急流に由来するとも言われている。
西隣の遠江国との境は大井川であった。奈良時代の大井川は、山間を出てから現在より北に折れ、今の栃山川を流れており、その流路が境であった。後世に、大井川の流路変更に従って、駿河国の領域が西に広がった。
680年(天武天皇9年)に、東部の二郡を分離して伊豆国を設置した。それに伴い、駿河郡駿河郷(現在の沼津市)にあった国府を安倍郡(現在の静岡市葵区と駿河区あたり)に移した。
[編集] 中世・近世
1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開き、畿内の朝廷と東国の幕府二つの政権が並立する時代では、両地域を結ぶ東海道の要衝。また、鎌倉時代には、聖一国師が安倍川流域で緑茶栽培業を始めた。
戦国時代には、今川義元の地盤。義元の時代には、本拠地たる駿府(静岡市)には、戦乱を逃れた京都の文化人が転入し、「東国の京都」と呼ばれる繁盛を見せた。又、この時代には、箱根・富士山を介して、甲斐国府中の武田氏、相模国小田原の後北条氏、駿河国府中の今川氏の三者間で甲相駿三国同盟が結ばれ、駿河国はその一角である。
義元が桶狭間の戦いで戦死すると、武田信玄や徳川家康の統治下に置かれた。駿府の今川館は、家康の時代に駿府城として改修された。1590年に家康が駿府から江戸に移ると、中村一氏が入った。
江戸時代初期には、江戸幕府を開いた家康が、大御所として再び駿府で過ごした。江戸時代には、天領である駿府の西の守りとして田中城(田中藩)が、東の守りとして清水湊が築かれた。この他にも、東海道の宿場町が多く誕生した。中でも、大井川は架橋や渡船が禁止されたため、旅人は川越によって渡川するほかなく、両岸に位置する島田宿と金谷宿は、川越で盛えた。
[編集] 近代
江戸幕府が倒れ明治政府が誕生すると、江戸は東京に、駿府は静岡に改称された。1871年の廃藩置県により静岡県の一部として、現在に至っている。
[編集] 律令時代の行政機関
(国府、守護所、国分寺、国分尼寺、安国寺、利生塔、一宮以下、総社)
国府は安倍郡に置かれた。国府所在地は「駿府」と呼ばれた都市で、静岡市葵区と駿河区に当たるが、正確な位置は不明である。静岡高校や駿府城の辺りが推定されているが、国府跡は確認されていない。
守護所も国府周辺にあったと考えられるが、確認されていない。
国分寺は、僧寺が静岡市駿河区大谷片山の片山廃寺が候補地だが、発掘調査によっても塔跡などが確認できていない。その他、長谷周辺や駿府城内などが候補に挙がっている。尼寺は不詳。静岡市葵区本通り6・7丁目付近にあったという菩提樹院が尼寺の後身という説がある。国分寺の法燈は、静岡市葵区長谷町の龍頭山国分寺が伝承する。国分尼寺は未詳。
安国寺は、静岡市清水区(旧清水市)承元寺町の神護山承元寺(本尊:薬師如来)。利生塔は静岡市清水区興津清見寺町の巨鼇山求王院清見寺(本尊:釈迦如来)がそれぞれ法燈を伝承する。
延喜式神名帳には大社1座1社・小社21座21社の計22座22社が記載されている。唯一の大社は浅間神社(現 富士山本宮浅間大社、富士宮市大宮)で、名神大社に列している。
一宮は富士宮市大宮町鎮座の浅間神社(富士山本宮浅間大社)であるが、中世史料で浅間神社を一宮としている史料はない。二宮は庵原郡由比町町屋原鎮座の豊積神社である。三宮は静岡市清水区三保の御穂神社で、二宮・三宮とも初見史料は寛文年間に創作された偽書だとされる「駿河国風土記」だが、根拠は不明。総社は神部神社であるが、中世以降、今川氏の後押しを受けた富士新宮とする説もある。ただし、現在両社は大歳御祖神社とともに静岡市葵区宮ヶ崎町の同一敷地内にあって「静岡浅間神社」と総称されており、法人格も一つである。
[編集] 守護
[編集] 鎌倉幕府
- 1180年~1184年 - 武田信義
- 1185年~1195年 - 北条時政
- 1210年~1219年 - 北条義時
- 1227年~1231年 - 北条泰時
- 1272年~1279年 - 北条時宗
- 1279年~? - 北条時守
- 1292年~1311年 - 北条貞時
- 1311年~1333年 - 北条高時
[編集] 室町幕府
- 1336年~? - 石塔義房
- 1338年~1353年 - 今川範国
- 1353年~1365年 - 今川範氏
- 1365年~1367年 - 今川氏家
- 1369年~1394年 - 今川泰範
- 1395年~1398年 - 今川貞世
- 1395年~1413年 - 今川泰範
- 1414年~1433年 - 今川範政
- 1433年~1461年 - 今川範忠
- 1461年~1476年 - 今川義忠
- 1479年~1526年 - 今川氏親
- 1526年~1536年 - 今川氏輝
- 1536年~1560年 - 今川義元
[編集] 国司
[編集] 駿河守
定員:1名。官位相当:従五位下 ※日付=旧暦 ※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
- 高橋祖麻呂(797年<延暦16>1月13日~800年<延暦19>12月19日)従五位下
- 高倉殿継(804年<延暦23>1月24日~806年<延暦25>1月28日)従五位上
- 礒野王(806年<延暦25>~809年<大同4>3月11日)従五位下
- 和建男(809年<大同4>3月11日~ )従五位上
- 藤原山人(810年<大同5>9月10日~ )従五位上
- 安倍弟雄(813年<弘仁4>1月10日~ )従五位下
- 藤原承之(815年<弘仁6>6月1日~ )従五位下
- 藤原吉野(819年<弘仁10>1月10日~823年<弘仁14>4月19日)従五位下
- 賀茂伊勢麻呂(834年<承和元>1月12日~ )従五位下
- 在原仲平(839年<承和6>1月11日~840年<承和7> )従五位下
- 文屋氏雄(840年<承和7>10月16日~ )従五位下
- 藤原高直(847年<承和14>1月13日~ )従五位下
- 丹良岑(850年<嘉祥3>5月17日~ )従五位下※丹と良の間には、土へんに、尸。尸の中には、=と=が横に並び、その下には牛の字が入る
- 楠野王(851年<嘉祥4>1月11日~ )正五位下
- 高橋浄野(854年<仁寿4>1月16日~856年<斉衡3>1月12日)従五位下
- (権守) 清原清海(855年<斉衡2>~858年<天安2>5月11日)従五位下
- 礒江王(856年<斉衡3>1月12日~ )従五位下
- 清原清海(858年<天安2>5月11日~ )従五位下
- 巨勢夏井(859年<天安3>1月13日~ )従五位下
- (権守) 大枝直臣(861年<貞観3>2月25日~ )従五位下
- 県犬養貞守(863年<貞観5>2月10日~ )従五位下
- 橘主雄(866年<貞観8>2月13日~ )従五位下
- 清原道雄(867年<貞観9>1月12日~ )従五位下
- 春澄魚水(884年<元慶8>3月9日~ )従五位下
- 大蔵是明(906年<延喜6>3月25日~ )従五位下
- (権守)出雲有持(950年<天暦4>1月30日~ )従五位下
- 平兼盛(979年<天元2>8月17日~ )従五位下
- 藤原惟孝(983年<天元6>1月~ )
- (権守) 懐行王(983年<天元6>~984年<永観2>)従五位下
- 藤原貞材(994年<正暦5>1月26日~ )従五位下
- 藤原高扶(1006年<寛弘5>7月13日~1008年<寛弘5>1月17日)※1006年より延任しているのでそれ以前に任官している。
- 藤原知光(1009年<寛弘6>~1010年<寛弘7>3月30日)
- (権守) 大中臣頼宣(1035年<長元8>1月~ )
- 平維盛(平安中期)( ~1062年<康平5>)
- 伴広貞(1095年<嘉保2>1月29日~ )※1095年に復任している。
- 源俊兼(1099年<承徳3>1月22日~ )従五位下
- 藤原親信(1103年<康和5>2月30日~ )
- 平為俊(1107年<嘉承3>1月24日~「1111年<天永2>10月7日」)
- 藤原説定(1112年<天永2>1月27日~「1113年<永久元>8月7日」)
- 藤原行佐(1116年<永久4>1月~「1111年<天永2>10月7日」)
- 平宗実(1124年<保安5>1月22日~1129年<大治4> )
- 藤原忠能(1129年<大治4>2月17日~「1133年<長承2>7月3日」)正四位下
- 藤原経雅(1136年<保延2>12月29日~「1139年<保延5>2月22日」)
- (権守)中原貞宗(1143年<康治2>1月27日~ )正六位上
- 藤原雅教(1145年<天養2>4月15日~1152年<仁平2>12月30日)正五位下
- (権守) 田使季俊(1148年<久安4>2月1日~ )従五位下
- 藤原忠弘(1152年<仁平2>12月30日~ )
- 藤原俊教(1154年<仁平4>9月12日~「1157年<保元2>10月22日」)
- 藤原雅長(1159年<平治元>8月14日~ )
- 源広綱(1184年<寿永3>6月5日~1190年<建久元>12月14日)従五位下
- 北条泰時(1219年<承久元>1月22日~1219年<承久元>11月13日)従五位上
- 三浦義村(1219年<承久元>11月13日~1223年<貞応2>4月10日)従五位下
- 北条重時(1223年<貞応2>4月10日~1237年<嘉禎3>11月19日)従五位下→従五位上
- 北条有時(1237年<嘉禎3>11月29日~1270年<文永7>4月10日)従五位上→正五位下
- 北条義政(1270年<文永7>5月20日~1273年<文永10>7月1日)従五位下
- 北条義宗(1277年<嘉禎3>6月17日~1277年<嘉禎3>8月17日)従五位下
- 北条業時(1280年<弘安3>11月4日~1284年<弘安7>4月10日)正五位下
- 北条政長(1284年<弘安7>8月~1301年<正安3>7月14日)従五位下
- 北条宗方(1300年<正安2>11月15日~1305年<寛元3>5月27日)従五位下