鳥海 (重巡洋艦)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1928年3月26日 |
進水: | 1931年4月5日 |
就役: | 1932年6月30日 |
その後: | 1944年6月25日戦没 |
除籍: | 1944年12月20日 |
性能諸元 | |
排水量: | 基準:9,850t、公試:12,986t(計画設計値、実際は1割ほどオーバーしている) |
全長: | 203.76m |
全幅: | 18.999m |
吃水: | |
機関: | 130,000馬力 |
最大速: | 35.5ノット |
航続距離: | 14ノットで8,000海里 |
兵員: | |
兵装: | 50口径3年式Ⅱ号20cm(20.3cm)連装砲5基(10門) 45口径10年式12センチ単装高角砲4基8門 89式61センチ連装魚雷発射管4基8門 40mm単装機銃2基 |
兵装 (最終時): |
25mm連装機銃8基 25mm単装機銃20基以上(正確な数は不明) |
航空機: | 水偵3機 |
鳥海 (ちょうかい)は、日本海軍の重巡洋艦で、高雄型重巡洋艦の4番艦。三菱重工業長崎造船所にて建造。艦名は秋田・山形県境の鳥海山に由来する。
書類上は日本に竣工した最後の重巡洋艦(一等巡洋艦)。(最上型、利根型は軽巡洋艦(二等巡洋艦)として計画され喪失まで書類上の変更はなかった)
高雄、愛宕、摩耶等のように改装する機会に恵まれず
- 45口径10年式12センチ単装高角砲4基(高雄等は40口径89式12,7センチ連装砲4基)
- 61センチ連装魚雷発射管4基(高雄等は4連装発射管4基)
のままの武装で最期を迎えた。なお、大戦後半にはレーダー(前部マスト上に2号1型を1基、艦橋に2号2型を2基)を装備していた。
目次 |
[編集] 艦歴
太平洋戦争開戦後、鳥海はマレー半島侵攻支援とイギリス海軍のZ部隊追跡に参加。1942年1月、2月、鳥海はオランダ領東インド、ボルネオ島の攻略作戦に参加。1942年2月22日、St. Jacques岬付近で暗礁に触れ損傷。27日、修理のためシンガポールに到着。
修理後鳥海はスマトラ島Iri、アンダマン諸島上陸を支援。その後、ビルマMerguiに寄港。
1942年4月1日、鳥海はMerguiを離れインド洋での通商破壊作戦(C作戦)に参加。鳥海は4月6日米船Bienvilleと英船Gangesを沈めた。4月22日、鳥海は横須賀に帰投。
7月、第8艦隊(三川軍一中将)旗艦となりラバウルに進出。8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲。鳥海はガダルカナル島へ向け出撃し第一次ソロモン海戦に参加。クインシー、アストリアからの命中弾により戦死34名。
日本軍のガダルカナル島からの撤退後、鳥海は第8艦隊の旗艦任務を解かれ1943年2月20日横須賀に帰還。
1944年6月、マリアナ沖海戦に参加。10月、レイテ沖海戦に参加。同25日のサマール沖海戦で米軍機の空襲により大破。駆逐艦藤波の魚雷で処分された。乗組員は藤波に移乗するも同艦はその後の空襲で撃沈されており、鳥海・藤波ともに1人の生存者もいなかった。
1944年12月20日、除籍。戦後、長崎県佐世保市の旧海軍墓地に鳥海・藤波連名の慰霊碑が建立された。
[編集] 鳥海・摩耶の近代化改装
鳥海・摩耶の近代化改装は1941年度から実施される予定だったが、同年12月の開戦のために実施されなかった。改装内容は艦橋の小型化をはじめ高雄・愛宕に準ずるが、後部マストの移設については盛り込まれなかったという(余談であるが、高雄・愛宕の後部マスト移設は、1936年の演習で鳥海が艦隊旗艦を務めた際に発覚した通信能力不足がその理由とされる)。
後に摩耶は戦傷修理を兼ねて改装を行ったが、鳥海は最期まで改装の機会がなかったのは先に述べた通りである。
[編集] 同型艦
[編集] 関連項目
大日本帝国海軍の重巡洋艦 |
太平洋戦争 |
古鷹型:加古 | 古鷹 青葉型:青葉 | 衣笠 |
妙高型:妙高 | 那智 | 足柄 | 羽黒 |
高雄型:高雄 | 愛宕 | 摩耶 | 鳥海 |
最上型:最上 | 三隈 | 鈴谷 | 熊野 |
利根型:利根 | 筑摩 鈴谷改型:伊吹 | 301号艦 |
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