アルバート・アナスタシア
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アルバート・アナスタシア(Albert Anastasia, 1902年2月26日 - 1957年10月25日)はアメリカのイタリア系犯罪組織マフィア(コーサ・ノストラ)のマーダー・インクとして知られる処刑委員会委員長。本名はウンベルト・アナスタシオ (Umberto Anastasio)。
ラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ、ヴィト・ジェノヴェーゼ、ジョー・アドニスらと共にニューヨーク・マフィアの黄金時代を築く。
アナスタシアは背が高く運動選手のような身体をしていて肩幅も広かったが、太っていたわけではなく、かつて軍で体育の教官をしており本人もそれを自慢にしていた。仕事上では荒っぽく気が短かったが、家族や親しい知人のなかでは優しく、心配りするという二面性を持ち合わせた人物でもあった。
[編集] 経歴
イタリア・カラブリア州のトロペーアに9人兄弟の一人として生まれた(弟のアンソニー・アナスタシオはのちにジェノヴェーゼ一家に入ることになる)、1919年にニューヨークへ渡った。10代で殺人を犯しており、殺人を重ねて波止場を支配するギャングの大物に上り詰めた。組合の名をかりて港の労働者と経営者の双方から金をしぼりとった。当時、彼を監督していたのはルイス・"レプケ"・バカルターだった。
1920年にジョー・トリノという労働者を殺したことで死刑を宣告されるが、2年後の再審では証人が証言をひるがえしたり姿を消したりして、無罪になった。
ダッチ・シュルツがトーマス・デューイを殺害しようと計画を立てたときに下調べをした。結局、取締りの強化を恐れたコミッションの指示によりシュルツは殺害された。
アナスタシアはギャングたちの中でも凶暴さと残忍さで際立っていた。暗黒街の検察官・裁判長を兼ね、マーダー・インク、いわゆる「殺人株式会社」の死刑執行人と恐れられ、判決が下ると殺し屋を派遣して対象者を処刑させた。殺害する前に拷問を加える残忍な処刑方法は、犯罪組織に鉄の団結と沈黙の掟を守らせることに効果があった。その後、マーダー・インクはヒットマンの一人エイブ・"キッド・ツイスト"・レルズの供述によりリーダーのルイス・バカルターら多数のメンバーが逮捕・処刑されて壊滅した。
5大ファミリーの一つマンガーノ一家の副ボスであったが、後に当時ニューヨーク・マフィアの最大の実力者であったフランク・コステロの了解の下、1951年にボスのヴィンセント・マンガーノを殺して自らがボスになった。そのときに、他のファミリーのリーダーたちはそれを認めなかったが、ジョゼフ・ボナンノが原則として他のファミリーの内輪の出来事は彼らだけの問題と説き伏せた。そのためか息子のビル・ボナンノにたいして親切でビルがマフィアの世界に入るときに自分のファミリーに入れてもかまわないと言った。しかし、ジョゼフが丁寧に断ってボナンノ・ファミリーに入った。
ジェノヴェーゼがヴィンセント・ジガンテを使いコステロを暗殺未遂したとき、ジョゼフ・プロファチとジョゼフ・ボナンノを訪れてジェノヴェーゼを組織から排除したいと告げていた。
[編集] 暗殺
1957年10月25日、アナスタシアはニューヨークに当時あったパーク・シェラトン・ホテル(現在のパーク・セントラル・ホテル)の理髪店に立ち寄ったが、散髪中のところ、覆面をした2人組の男によって銃殺された。独裁者的な行動が目立ち始めたためだといわれる。
この殺害はアナスタシアと対抗してニューヨーク・マフィアの覇権を目指していたヴィト・ジェノヴェーゼの支持の下、アナスタシア一家幹部のカルロ・ガンビーノがプロファチ一家のボスジョゼフ・プロファチに殺害を依頼し、実行犯はプロファチの部下のジョーイ・ギャロだったという説が一般的であるが、実行犯はガンビーノの部下のジョー・ビオンドで、アナスタシアの後にガンビーノがボスに昇格した際にビオンドが副ボスに昇進したのはその功績という説もあるし、フロリダのサント・トラフィカンテが暗殺を手配したという説もあり、真相は定かではない。
この暗殺事件はその場所と、散髪中に顔を蒸しタオルで覆っているところを殺害されたという劇的さでマフィア史上最も有名なものであり、後に映画『ゴッドファーザー』でラスベガスのギャングのモー・グリーンが殺害された場面はこの暗殺事件をモチーフにしていると言われる。