アンディ・フグ
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基本情報 | |
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本名 | アンディ・フグ |
あだ名 | 鉄人 |
階級 | スーパーヘビー級(WKA) |
国籍 | スイス |
誕生日 | 1964年9月7日 |
出身地 | スイス、チューリッヒ |
命日 | 2000年8月24日 |
死地 | 日本国、東京都、文京区 |
スタイル | フルコンタクト空手 |
プロキックボクシング戦績 | |
総試合数 | 47 |
勝ち | 37 |
KO勝ち | 22 |
敗け | 9 |
引き分け | 1 |
無効試合 |
アンディ・フグ(Andy Hug, 本名 Andreas Hug(アンドレアス・フグ) 1964年9月7日 - 2000年8月24日)は、スイス・チューリッヒ出身の空手家、K-1ファイター。
身長180cm、体重98kg。血液型はO型。得意技は踵落とし、下段後ろ回し蹴り(フグトルネード)、左フック。入場時にはクイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」をテーマ曲に使用していた。妻・イローナ、息子・セイヤ。
空手家でもあり、K-1ファイターでもあるアンディ・フグという格闘家は、勝ちも負けもKO決着が多い、倒すか倒されるかの選手であった。K-1ファイターの中では決して大きくない体で、負けても負けても立ち上がる不屈の戦いぶりと、彼が得意としていた踵落とし等の華麗な技、そしてCMやTV番組で見せるユーモア溢れる人柄も併せ、K-1の人気を押し上げることに大きく貢献した。日本では自炊をしていたアンディだが、炊いたご飯にバナナとヨーグルトをかけて食べるのが彼流だった。
急性前骨髄球性白血病(APL)により35歳で逝去。彼の死は、K-1のファンや関係者に大きな衝撃を与えた。あの暴君ピーター・アーツも号泣するほどであった。
目次 |
[編集] 来歴
幼少期のアンディはサッカー少年であったが、ブルース・リーに憧れて10歳より極真空手を始める(乱暴者であまりにも素行が悪かったために祖母が空手をやらせたという話もある)。そして若くして頭角をあらわし、ヨーロッパ最強の男ミッシェル・ウェーデル、松井章圭のライバルとして争い続けた。1991年の極真ヨーロッパ選手権にて、決勝戦で黒豹の異名を持つマイケル・トンプソンに敗れ準優勝。その年の第五回世界大会では、フランシスコ・フィリョに一本負け(止めがかかってからの上段回しによる失神。大山倍達総裁の「止めがかかったとはいえ、その不意をつかれる者は勝者ではない」という判断により一本負けとなる)。その後、極真会館を退会。フィリョは兄弟子のアデミール・ダ・コスタが第四回世界大会でアンディに敗れていたため、リベンジを果たした形となった。
その後、アンディはプロに新天地を求めて正道会館に移籍。グローブ空手を経てK-1に参戦する。ワンマッチでは村上竜司に必殺の踵落としで快勝するも、94年トーナメントでは1回戦、UFC出身の喧嘩ファイターパトリック・スミスにまさかの1RKO負け。その後のリベンジマッチではスミスに完勝するも、95年トーナメントではまたも1回戦に当時無名のマイク・ベルナルドにKO負けを喫する。しかし、96年のグランプリでは一気に決勝まで勝ち上がり、宿敵マイク・ベルナルドをKOで下し、悲願の初優勝(空手家として初制覇)。見事、彼は94年、95年の借り全てを返した。97年のワンマッチでは、極真時代のライバルにして、K-1初参戦の因縁の相手フランシスコ・フィリョを迎え撃つ形となった。しかし、なんと王者アンディはフィリョに右フック一発で1RKO負けを喫してしまう。
その後、97年のグランプリ決勝トーナメントでは決勝まで勝ち進むも、アーネスト・ホーストに判定負け。98年決勝トーナメントも同様に決勝まで勝ち進んだが、当時圧倒的な強さでトーナメントを勝ち上がってきたピーター・アーツにKO負け。敗れはしたものの、3年連続でファイナリストとなった記録は未だに破られていない。(MAXではブアカーオ・ポー.プラムックがタイ記録を持っている)
2000年の福岡大会のトーナメントに出場する予定だったが、大会の二ヶ月前に急性白血病のため死去。代わりに出場したマイク・ベルナルドが優勝し、亡きアンディの遺志を継ぎ東京ドームへ。しかし、そのベルナルドが決勝トーナメントを欠場。代わりに出場したレイ・セフォーが決勝まで勝ち進み、その結果準優勝を飾った。アンディの遺志は、亡くなってもなお勝ちにこだわるものだったのかもしれない。
[編集] 晩年
急性白血病のことは周囲の心配をかけることを嫌い、家族にすら内緒にしていた。また、家族ぐるみで親交のあった角田信朗(アンディの息子セイヤの名付け親は角田である)も、息を引き取る前日まで知らされていなかった。角田が慌てて病院に駆けつけた時には、既にアンディは声をかけても反応できない状態にあり、やがて心肺停止状態に陥った。しかし角田が「何してんねん!」「まだ戦えるやろ!」と声をかけると、アンディの心肺機能が一時復活した。アンディは角田の呼びかけに三度も応え、そして息を引き取った。
[編集] 戦績
- プロキックボクシング(K-1含む): 47戦 37勝 22KO 9敗 1分け 1無効試合
- 1993年4月30日、角田信朗に2R一本勝ち(国立代々木競技場第一体育館)
- 1993年9月3日、村上竜司に1R一本勝ち(日本武道館)
- 1994年3月4日、K-1初参戦ブランコ・シカティックに判定勝ち
- 1994年4月30日、準々決勝でパトリック・スミスに1RKO負け(国立代々木競技場第一体育館)
- 1994年9月18日、パトリック・スミスに1RKO勝ち(横浜アリーナ)
- 1994年12月10日、ロブ・ファン・エスドンクに4RKO勝ち(名古屋市総合体育館レインボーホール)
- 1995年3月3日、マイク・ベルナルドに3RTKO負け(日本武道館)
- 1995年5月4日、ピーター・クレイマーに1RKO勝ち(国立代々木競技場第一体育館)
- 1995年6月10日、デニス・レーンに2R終了TKO勝ち(スイス/ハレンスタジアム)
- 1995年7月16日、アーネスト・ホーストに判定負け(名古屋市総合体育館レインボーホール)
- 1995年9月3日、マイク・ベルナルドに2RKO負け(横浜アリーナ)
- 1995年12月9日、ジェロム・レ・バンナに判定勝ち(名古屋市総合体育館レインボーホール)
- 1996年3月10日、バート・ベイルに1RTKO勝ち(横浜アリーナ)
- 1996年5月6日、準々決勝でバンダー・マーブに1RKO勝ち、準決勝でアーネスト・ホーストに延長2R判定勝ち、決勝でマイク・ベルナルドに2RKO勝ち(横浜アリーナ)
- 1996年6月2日、サダウ・ゲッソンリットに2RTKO勝ち(スイス/ハレンスタジアム)
- 1996年9月1日、スタン・ザ・マンに2RKO勝ち(大阪城ホール)
- 1996年10月18日、佐竹雅昭に判定勝ち(横浜アリーナ)
- 1996年12月8日、武蔵に判定勝ち(名古屋市総合体育館レインボーホール)
- 1997年3月16日、ピーター・アーツに1RTKO負け(横浜アリーナ)
- 1997年4月29日、サム・グレコとドロー(マリンメッセ福岡)
- 1997年6月7日、マイク・ベルナルドに判定勝ち(スイス/ハレンスタジアム)
- 1997年7月20日、フランシスコ・フィリョに1RKO負け(ナゴヤドーム)
- 1997年9月7日、ピア・ゲネットに1RKO勝ち(大阪ドーム)
- 1997年11月9日、準々決勝で佐竹雅昭に1RKO勝ち、準決勝でピーター・アーツに判定勝ち、決勝でアーネスト・ホーストに判定負け(東京ドーム)
- 1998年4月9日、カーティス・シュースターに判定勝ち(横浜アリーナ)
- 1998年6月6日、ピーター・アーツに判定勝ち(スイス/ハレンスタジアム)
- 1998年9月27日、マーク・ラッセルに2RKO勝ち(大阪ドーム)
- 1998年12月13日、準々決勝でレイ・セフォーに2RKO勝ち、準決勝でサム・グレコに判定勝ち、決勝でピーター・アーツに1RKO負け(東京ドーム)
- 1999年2月3日、中迫剛に2RKO勝ち(国立代々木競技場第二体育館)
- 1999年4月25日、レイ・セフォーに4R終了TKO勝ち(横浜アリーナ)
- 1999年6月5日、ステファン・レコに判定勝ち(スイス/ハレンスタジアム)
- 1999年10月3日、天田ヒロミに1RKO勝ち(大阪ドーム)
- 1999年12月5日、準々決勝でアーネスト・ホーストに判定負け(東京ドーム)
- 2000年3月19日、武蔵に判定勝ち(横浜アリーナ)
- 2000年4月23日、グラウベ・フェイトーザに判定勝ち(大阪ドーム)
- 2000年6月3日、ミルコ・クロコップに判定勝ち(スイス/ハレンスタジアム)
- 2000年7月7日、ノブ・ハヤシに1RKO勝ち(仙台グランディ21)
[編集] 獲得タイトル
- カラテワールドカップ’92優勝
- WKAムエタイヨーロッパスーパーヘビー級王座
- UKF世界スーパーヘビー級王座
- W.M.T.C.世界スーパーヘビー級王座
- WKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座
- K-1 WORLD GRAND PRIX '96 優勝
- K-1 WORLD GRAND PRIX '97 準優勝
- K=1 WORLD GRAND PRIX '98 準優勝
- K-1 WORLD GRAND PRIX '99 ベスト8
[編集] コマーシャル
[編集] 生前
- インスタントラーメン「強麺」(日清食品)
- オカモチを持って両手がふさがった状態のアンディが、踵落としでドアをノックして蹴破るというもの。CMの中で彼が発する台詞「ごーめんなさいよ」は当時の流行語となった。他にも、エレベーターのボタンを踵落としで蹴ってエレベーターを故障させてしまうバージョンや、立ち往生したバスをアンディがロープで引っ張ったらバスの顔だけ取れて乗客を置き去りにしてしまったバージョンなどもあった。
- インスタントラーメン「スタミナカップヌードル」(日清食品)
- 育毛トニック「Incent」(ツムラ)
[編集] 没後
- テレビのみならず、ラジオ、新聞、雑誌、ポスター、リーフレットにも起用。このCMは、アンディの遺族とK-1の承諾を得て製作された。
[編集] テレビ番組
:1999年3月5日放送の「世界最強!?徳田流格闘術」というエピソードに登場した。 依頼者が自己流の格闘技を身につけたいという依頼だったが、本人には格闘技の経験がなく、跳び蹴りを一つ放つにしても後頭部を床に打ちそうになったりで、てんやわんや。アンディは後半に依頼者とその弟のスパーリングの相手として登場した。ボコボコにされた弟曰く、「メッチャ強い」だったとか。ちなみに、その時のレフェリーは角田信朗。 なお、アンディが死去した直後に多くの視聴者から再放送の要望があり、追悼の意を込めて後日改めて放送されている。
[編集] 映画
- ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影
- 最強への道 WELCOME TO THE K zone
[編集] ウェブサイト
[編集] 関連項目
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