アントニオ・ロッカ
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アントニオ・ロッカ | |
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プロフィール | |
リングネーム | アントニーノ・ロッカ アルゼンティーナ・ロッカ |
本名 | アントニーノ・バイアセットン |
ニックネーム | ニューヨークの帝王 |
身長 | 183cm |
体重 | 103kg |
誕生日 | 1927年4月23日 |
死亡日 | 1977年3月15日 |
出身地 | イタリア・トレヴィーゾ |
スポーツ歴 | アマレス 陸上競技 ボクシング |
トレーナー | スタニスラス・ズビスコ (Stanislaus Zbyszko) |
デビュー | 1942年 |
アントニオ・ロッカ(Antonio Rocca、1927年4月23日 - 1977年3月15日)は、アメリカ合衆国で活躍したアルゼンチンのプロレスラー。
本名:アントニーノ・バイアセットン(Antonino Biasetton)。日本ではアントニオ・ロッカとして知られるが、正式なリングネームはアントニーノ・ロッカ(Antonino Rocca)である。
目次 |
[編集] 経歴
イタリア・トレヴィーゾで生まれ、幼少期にアルゼンチンへ移住。アルゼンチン時代はアマレス・陸上競技・ボクシングなどスポーツ万能だった。
プロレスデビュー後アメリカへ渡り、南部地区からニューヨーク地区へ転戦し、華麗な空中殺法を武器に大活躍。特にイタリア系移民とヒスパニック系移民から圧倒的な支持を得る。
1950年代初頭から1960年代前半にかけて「マディソン・スクエア・ガーデンの帝王」としてトップレスラーの地位に長期間君臨した。
現役時代は日本に縁が無く日本のプロレス団体に参戦することはなかったが(全盛期の頃はアメリカ国内で大人気だった為、スケジュールの都合がつかず、招聘したくても出来ない状況だった)、アントニオ猪木対ルー・テーズのNWFヘビー級選手権試合のレフェリーとして1975年8月に初来日。
「幻の名選手が遂に来日した」と日本のプロレスファン・プロレス関係者に歓迎されたが、これが最初で最後の来日となった。
晩年までリングに上がり続け(当然だが往年の輝きは失せていた)「75歳まで現役を続け、150歳まで生き続ける」と宣言していたが、1977年3月15日にニューヨークの病院で肝臓ガンにより死去。享年49。
[編集] タイトル履歴
- WWFインターナショナル・ヘビー級王座(藤波が獲得した際に、「ロッカメモリアル」として日本では紹介された)
- NWAテキサス・ヘビー級王座
- AWA世界ヘビー級王座(オハイオ州認定)
[編集] 得意技
- アルゼンチンバックブリーカー:アントニオ・ロッカが偶然開発した技で、代表的必殺技。
- エアプレーン・スピン
- ドロップキック
- フライング・ヘッドシザース
[編集] その他
- アントニオ猪木のリングネームの由来となった人物として知られるが、諸説あり信憑性は定かではない。ただし、このエピソードが広く語られる程ニューヨークで活躍した伝説の名レスラーであった事に間違いはない。
- ブルーノ・サンマルチノは、ロッカが同じイタリア出身であることを信じていなかった。彼によると『臭いが違う』そうである。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: アルゼンチンのプロレスラー | 1927年生 | 1977年没