エジプト第8王朝
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エジプト第8王朝(紀元前2180年頃 - 紀元前2160年頃?)は、エジプト第1中間期時代の古代エジプト王朝。第7王朝時代から続く混乱の中で短命王が続き、短期間のうちに終焉を向かえた。
目次 |
[編集] 歴史
エジプト第8王朝の統治についてわかっていることはほとんど無い。最低でも6人の王がいたと考えられているが、若干の史料が残されているのは初代のウアジカラー王と、カカラー王の二人だけである。エジプト第8王朝はエジプト古王国時代のメンフィスを拠点とした統一王朝の後継者的な地位を占めていた。ウアジカラー王は上エジプトの有力諸侯と姻戚関係を結ぶ政策を採っていた第6王朝と同じように、上エジプトのコプトス侯シェマイとの関係を強化することで地位を強化することを考え、シェマイを上エジプト長官に任じ、王女を彼と結婚させた。上エジプト長官の地位は上エジプト諸州を統括するものであり、古王国時代から用いられていたものである。シェマイに限らず、この時代の地方役人の多くが、古王国時代から続く伝統的な役職名を名乗っていたことや、ピラミッド複合体での葬祭儀式が継続していたことから、第8王朝時代にはメンフィスの政権は弱体とは言え未だにエジプト王としての権威は残されていたことがわかる。しかしシェマイの息子イディは、上エジプト長官の職を世襲したが、彼の上エジプトにおける勢力範囲は父の時代よりもかなり狭まっていたと考えられる。これは即ち第8王朝の弱体化を示すものでもある。メンフィスの王権が弱体化する一方で上エジプトの州侯達は自立勢力としての地位を括弧たるものとしていたのである。
カカラー王は彼の作ったピラミッドが発見されていることによってその存在が実証されている。彼がピラミッドを構築したことは、第8王朝が古王国時代以来の伝統を固守しようとしたことを端的に示すと言える。しかし、第8王朝の王はその多くが数年で地位を失っている。約20年程度で第8王朝は滅亡、これによってメンフィスを拠点として続いてきたエジプトの統一王朝は完全に終わりを告げ、各地で自立した州侯は相互に争った。やがて紀元前2160年頃に上エジプトのヘラクレオポリス(古代エジプト語:ネンネス)侯ケティ1世が他の州侯を圧倒して王を称し、現在エジプト第9王朝と呼ばれる政権を建て、やや遅れてやはり上エジプトのテーベ侯(古代エジプト語:ネウト[1])アンテフ1世が現在エジプト第11王朝と呼ばれる政権を成立させた[2]。こうしてエジプト史は新しい局面を迎えていくことになる。
[編集] 歴代王
第8王朝の王については諸説あり、以下に示す一覧は正確さの保障されたものではない。王の人数についても諸見解があり、6人(参考文献では『考古学から見た古代オリエント史』がこれを採用)、17人(同『ファラオ歴代誌』がこれを採用)、27人(同『年表 古代オリエント史』がこれを採用)[3]などの説がある。
- ウアジカラー
- スネフェルカー・アヌ
- カカラー・イビィ
- ネフェルカウラー
- ネフェルカウホル
- ネフェルイルカラー
[編集] 注
- ↑ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメン(アメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではノと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
- ↑ 第10王朝は第9王朝の後にヘラクレオポリスに興った王朝であり、第11王朝は第9王朝よりやや遅れてテーベに興った王朝である。したがってこれらは同じ時代に同時に存在しており、番号どおりの順で支配権が交代したわけではない。
- ↑ 27人説はマネトの記録に基づく