エドワード・オブ・ウェストミンスター
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エドワード・オブ・ウェストミンスター (Edward of Westminster, 1453年10月13日 - 1471年5月4日)は、史上唯一戦死したイングランドのプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)である。
彼はイングランド国王のヘンリー6世とマーガレット・オブ・アンジューの息子として、ウェストミンスターのウェストミンスター宮殿で生まれた。ただ当時彼の父親は精神病に苦しんでいたため、王子の出生については彼の母親と愛人との情事の結果という噂が広まっていた。もっともこれには確たる証拠もないし、ヘンリー6世も自分が王子の父親である事を疑っていなかった。エドワードは1454年にウィンザー城でプリンス・オブ・ウェールズに就任した。
1460年にヘンリー6世がヨーク公リチャードの圧力に負けて、エドワードの生得権である王位継承権を手放してヨーク公を王位継承者に指名した時、マーガレット女王はすぐに軍を出してヨーク派と戦おうと企てた。ランカスター派が壊滅してフランスに亡命する前、マーガレットとエドワードはしばらくスコットランドとウェールズを逃げ回っていた。 マーガレットは1469年にヨーク派から離反したウォリック伯と同盟を結び、エドワード王子は1470年12月にウォリック伯の末娘のアン・ネヴィルと結婚した(きちんとした結婚式を挙げたかどうかは疑わしいが)。
ウォリック伯は一旦はヨーク派に奪われていた王位を取り戻し、ヘンリー6世を復位させる事に成功した。しかし、マーガレットとエドワード夫妻がイングランドに戻ってきた時、運命のどんでん返しが起きていた。ウォリック伯はバーネットの戦いで敗死して、ヨーク派のエドワード4世に王位を奪還されていたのだ。そこで、経験不足の王子と彼の母親は、一縷の望みを託してテュークスベリーの戦いで残存兵の指揮を執った。だが、結局はランカスター派の敗北に終わった。
言い伝えによれば、エドワードはグロスター公リチャードに捕虜にされて、エドワード4世の前に連れて来られた。そこでエドワードがヨーク派の王エドワード4世を侮辱したため、王はエドワードを即刻処刑するよう命じたという。彼はテュークスベリー修道院に埋葬される。
彼の未亡人アン・ネヴィルは、翌1472年にグロスター公リチャード (1483年に即位してリチャード3世) と結婚した。
先代: ヘンリー5世 |
プリンス・オブ・ウェールズ 1453年 - 1471年 |
次代: エドワード5世 |
カテゴリ: 薔薇戦争の人物 | プリンス・オブ・ウェールズ | 1453年生 | 1471年没