エフゲニー・ムラヴィンスキー
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エフゲニー・アレクサンドロヴィッチ・ムラヴィンスキー (Евгений Александрович Мравинский (Evgeny Aleksandrovich Mravinsky), 1903年6月4日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では5月22日) - 1988年1月19日)はソヴィエト・ロシアを代表する指揮者のひとり。
目次 |
[編集] 略歴
- 1903年 サンクトペテルブルクで法律家の家庭にて誕生。
- 1909年 6歳の時からピアノを学びはじめる。
- 1920年 ペトログラード大学に入学。同年に父親が亡くなる。生活費捻出のためにマリインスキー劇場のパントマイムの端役を務める。
- 1924年 レニングラード音楽院に入り直し、作曲と指揮を学ぶ。
- 1932年 マリインスキー劇場(当時の名称はレニングラード・バレエ・アカデミー・オペラ劇場)で指揮者デビューを果たし、以後1938年までこの職にとどまる。
- 1938年 全ソ指揮者コンクールに優勝。この優勝により、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者に就任。以後、50年間にわたってこの地位に君臨する。
- 1946年 スターリン賞受賞。
- 1961年 レーニン賞受賞。後にレーニン勲章も受章した。
- 1973年 初来日。
- 1988年 レニングラードにて死去。
[編集] レニングラードフィルの常任指揮者として
1938年にムラヴィンスキーはレニングラードフィルの常任指揮者に就任、士気が低迷していたオーケストラの立て直しに着手する。透明な音色と凝集度を併せ持つ洗練された演奏は、就任当初の録音を聴いても、金管の音色を除けばロシアのオーケストラである事が連想できないほどである。晩年に至るまでの演奏様式の基本は就任当時に既に確立されていた事が窺える。
1941年の独ソ戦開戦後、オーケストラとともに疎開したが、その間も慰問演奏などで殺人的な回数の指揮を精力的にこなしている。
1946年、プラハの春出演という形で外国公演を始める。西側にまでその名声が及んだのは1956年にモーツァルト生誕200年祭でウィーンを訪れたのがきっかけであった。
[編集] 日本との関係
レニングラード・フィルは1958年に初来日を果たすが、ムラヴィンスキーは病気のために同行できなかった。1970年はムラヴィンスキーに出国許可が下りず(表向きは急病とされる)、代役でスヴャトスラフ・リヒテルが初来日している。1973年になってリヒテルの代役としてようやく初来日が実現した。飛行機嫌いのため、シベリア鉄道と船を長期間乗り継いでの来日であった。ムラヴィンスキーは最初、遙か遠方の日本まで足を運ぶことをあまり快く思っていなかったとされているが、迎える側の献身もあり、彼は日本に対して非常に大きな好感を抱いたという。その後は1975年、1977年、1979年と、三回の来日を果たしている。
1981年、1986年にも来日が予定されていたが、それぞれ出国の不許可、体調不良により断念した。1981年の来日断念に関しては、1979年の来日時にレニングラード・フィルの楽員から亡命者が出た事で、もともと党との関係が良好でなかったムラヴィンスキーの立場がさらに悪化したことと、日本のモスクワオリンピックボイコットによるソ連当局の悪感情が影響したためとされている。
[編集] レパートリー
[編集] ショスタコーヴィチ
ムラヴィンスキーと最も結びつきの強い作曲家としては、ショスタコーヴィチを挙げることができる。ショスタコーヴィチに関しては、1937年、第5交響曲の初演を指揮するなど、多くの曲を初演した(第6・8・9・10・12番等)。中でも最高傑作の一つとされる第8交響曲はムラヴィンスキーに献呈されたものである。
ショスタコーヴィチとの関係は、第13番の初演をムラヴィンスキーが断ったことで、いったん切れてしまうことにある。初演を断った理由としては、当時、妻が不治の病を患っておりムラヴィンスキーが強い心痛を抱いていたことや、曲に強い政治性を感じたことなどがあるといわれる。ちなみに、ソロモン・ヴォルコフ著「証言」の中では、ムラヴィンスキーは自分の曲を理解していないとこきおろされているが、もともと「証言」の信憑性に対しては一部に強い疑義があり、この発言の真偽も定かではない。
[編集] その他
チャイコフスキーの管弦楽曲にも特筆すべきものがある。特に1960年にドイツ・グラモフォンにより録音された後期三大交響曲については、ムラヴィンスキーにとって最も脂の乗っていた頃の録音であり、半世紀近く経過した今でも、非常に価値の高い名盤として認知されている。
また、ムラヴィンスキーの音楽はベートーヴェンやブラームスといった独墺系の交響曲にも適性を示しており、このことは日本で熱狂的に受け入れられた理由の一つともされている。
[編集] 参考文献
ムラヴィンスキーと私 河島みどり/著 草思社 : ISBN 4-7942-1398-0
[編集] 外部リンク
先代: フリッツ・シュティードリー |
レニングラード・フィルハーモニー 交響楽団首席指揮者 1938–1988 |
次代: ユーリ・テミルカーノフ |