エレフテリオス・ヴェニゼロス
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エレフテリオス・ヴェニゼロス(Ελευθέριος Βενιζέλος, 1864年8月23日 - 1936年3月18日)は、ギリシャの政治家。20世紀前半のギリシャを代表する政治家のひとりで、9期に渡って断続的に長期間首相を務めた。
[編集] クレタ島時代
オスマン帝国領クレタ島に生まれ、アテネ大学で法学を学んだ。クレタ島に帰った後、1897年に起こったオスマン帝国に対する反乱運動に参加した。この結果クレタ島への自治付与に帰結すると、クレタ島にはギリシャ王国のゲオルギオス王子が総督に任命され、ヴェニゼロスはその下でクレタ島高等弁務官の参事官として働いた。
1909年にギリシャ王国で軍の将校によるクーデターが起こると、クレタ島における政治手腕を買ったギリシャ政府により招かれアテネにむかった。総選挙の実施を主張した彼の提案は受け入れられ、1910年8月8日と11月28日の二度に渡って総選挙が実施された。これらの選挙でヴェニゼロス支持者が多数を占め、ヴェニゼロスは首相に任命された。
[編集] 首相
彼は1911年に憲法を改正し、人権保護、初等教育の義務化などを規定した。これ以外にも行政、司法、社会保障、労働問題など広範囲の改革を行い、これまでギリシャでは不可能だった政治・経済の安定を実現した。対外的には1912年に始まった二度のバルカン戦争を勝利に導き、クレタ島やテッサリア、イピロスなど広範囲の領土を獲得した。1914年に第一次世界大戦が起こると協商国側での参戦を主張し、中立を望む国王コンスタンティノス1世やメタクサスを中心とする参謀本部と対立した。1915年3月に首相を辞任して総選挙を実施し再度政権を握った後、セルビアへの派兵を決めたが、国王はあくまでこれを拒否したため、首相を辞任し下野した。協商国はイオニア諸島ケルキラ島、テッサロニキ周辺などを占領し、ギリシャ領マケドニアにはブルガリアが侵入するなど混迷が深まる中、1916年10月にヴェニゼロスは協商国の支援を受けテッサロニキに臨時政府を樹立、アテネの王党側と対立した。1917年にコンスタンティノスは亡命し、ヴェニゼロスはアテネに帰還して新政府を組織し、協商国に立ち参戦した。数ヶ月後に第一次世界大戦は終結し、パリ講和会議には戦勝国として参加した。大戦終結後はアナトリア南西部のスミルナ(現在のイズミル)に出兵、ギリシャ人の居住するあらゆる地域をギリシャに回収するというメガリ・イデアの目標を達成しようとしたが、1920年の総選挙で自身の率いる自由党が大敗北し、退陣した。
ヴェニゼロスが政治力を失いギリシャ国外にいたこの間にコンスタンティノス国王が復位、ギリシャ軍はアナトリア戦役でトルコに敗北(希土戦争)、ヴェニゼロス派将校によるクーデターによる王制廃止と情勢が変化した。1928年、ヴェニゼロスの自由党は総選挙で議席のほとんどを奪う大勝利を果たし、ヴェニゼロスは再び首相を務めたが、王党派との対立もあり、有効な政策を実行できなかった。
1932年、自由党は総選挙で王政派に敗れ、ヴェニゼロスは下野を余儀なくされ、1935年には国民投票により王政復古が行われた。ヴェニゼロスはギリシャを出国し、翌1936年、パリで亡くなった。
現在でも国民に広く慕われており、アテネ国際空港は、正式にはエレフテリオス・ヴェニゼロス空港と呼ばれ、またギリシャのユーロ50セント硬貨にはヴェニゼロスの肖像がデザインされている。