クルップ
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クルップ社は、ドイツのエッセンにあり、400年の歴史を持つ重工業企業である。1999年にティッセン社と合併し、巨大な工業コングロマリットとなっている。
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[編集] 端緒
アルフレート・クルップはイギリス製の鉄鋼に破れ莫大な借金を抱えてこの世を去った父フリードリヒ・クルップからプロイセン西部ライン川下流のエッセンにある工場を引き継いだ。おそらくそのころはこの工場が泣く子も黙る死の商人として人々を震撼させるクルップ社へと発展するとは誰も夢にも思わなかったろう。
[編集] 鉄道事業
さて、ドイツに最初に鉄道が敷かれたのは1835年である。鉄道は当時まさに金のなる木であった。特に鉄鋼は鉄という字がつくだけに鉄道には欠かせない要素である。また、鉄道は沿線の間の交易を発達させ、国民経済の形成に大きく貢献した。ちなみにイギリス最初の蒸気機関車がストックトン・ダーリントン間に走ったのが1825年であるから、後進国のわりにドイツが鉄道を導入したのはなかなか早い。このニュースにアルフレートは飛び上がって喜んだ。 「新しい未来が私たちの前に開けている。今や私たちは、鋼鉄の時代に生きているのだ。」 また前年の1834年、ドイツ関税同盟が成立し、加盟国間での関税や通行料は廃止された。
ドイツ関税同盟が成立とすぐにアルフレートは商用旅行に出かけ、大量の注文の取り付けに成功した。この都市からクルップの工場は水力から蒸気機関を動力に用いるようになった。
[編集] 軍事産業への参入
そのころ、フランスでは1830年には7月革命、1848年に2月革命がおこり、そのたびにヨーロッパでは革命の嵐が吹き荒れたが彼の頭の中は1に商売2に商売3,4がなくて5に商売であった。そして彼の発想は戦争で繁盛するなら大いに結構というクルップ家の伝統へとつながってゆくのである。
次第にアルフレートは武器の生産に目をつけてゆく。1843年には鋼鉄製の銃、1847年には大砲をプロイセンの陸軍当局に送り売込みをかけるがにべもなかった。それならばとアルフレートはプロイセン国王に大砲を献上する。この大砲は王宮の大理石の広間に置かれ大いにPRとなった。1851年、ロンドンの第一回万国博覧会に6ポンドの大砲を出品した。あえて万博に戦争の道具を出品したアルフレートは見事金賞を勝ち取った。
ヴィルヘルム1世はアルフレートが以前先王に大砲を献上したことからクルップから300門もの大砲を発注した。また、かの鉄血演説を行ったオットー・フォン・ビスマルクが宰相となり、アルフレートの元を訪れた。二人は意気投合し、ドイツの近代化を強力に推し進めた。
新製鋼法を導入し、事業を順調に伸ばすアルフレートはプロイセンだけではなく軍備強化に励む各国から手広く受注していた。その一方でプロイセンが国内の鉄鋼業者から競争入札で大砲の発注元を決めようとしたときは「一門でもクルップ以外の鉄鋼業者が注文をとったら直ちに全世界に対して、彼らの欲する大砲を売り渡すであろうと」脅迫めいた内容の手紙を出している。
そんなアルフレートに対していつしか人々は皮肉をこめて「大砲王」と呼ぶようになった。もっとも、本人はその称号をいたく気に入っていたようだが。
クルップは兵器だけでなく鉄道用品の製造に力を注いだ。特にクルップの作る継ぎ目なしの車輪は丈夫でしかも摩擦が少ないということから年々受注が増えた。こうして建設された鉄道が普仏戦争をプロイセン王国の勝利に導いたのである
1867年、アルフレートはナポレオン3世が主催するパリ万博にまたも大砲を出品するのである。それも化け物のような大きさの巨砲であった。
また、当時オランダに留学中の榎本武揚は初代アルフレート・クループを訪れ、当時建造中の軍艦開陽丸に搭載する大砲を注文し、最終的に18門が搭載された。
[編集] 二つの世界大戦
[編集] 第一次世界大戦
クルップはドイツ陸軍向けに、1914年に420mm砲を、また1917~1918年にはパリ砲を製作している。
[編集] 第二次世界大戦
クルップはドイツ軍向けに、戦車・砲・軍用トラックなどの兵器を製造し続けた。連合軍からの占領を避けるため、ドイツ国内に工場を移転しながら、終戦まで製造を続けた。
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