サヴジ王子
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サヴジ王子(Savcï çelebi)(?-1373年)はオスマン朝君主ムラト1世の長子、後継者にして反逆者。
父ムラトが君主となると同時に後継者となる。恐らく同世代であったと思われる東ローマ帝国の共同皇帝・帝位継承者アンドロニコス4世パレオロゴスと意気投合し、互いの権力奪取の為の密約を結ぶ。
1373年、父ムラトは小アジア方面に遠征する際に首都エディルネ及びヨーロッパ側領土の統治をサヴジに委任したが、サヴジはこの機会を捉えてヨーロッパ側に残留したオスマン貴族を説得して従わせ、アンドロニコスと共に挙兵した。反乱軍はエディルネからコンスタンティノポリス近郊ままでの地域を確保したが、間もなくムラトは小アジアから戻り、アンドロニコスの父ヨアニス5世パレオロゴスを伴って反乱軍の討伐に向かった。ムラトの姿を見た反乱軍将兵の多くが士気を阻喪し脱落し、ムラト側に援軍として同行していた東ローマ軍の攻撃で敗走した。サヴジは後退してトラキア都市ディディモティホン(現在のギリシア・トルコ国境線近くに位置)に籠城したものの兵糧攻めに遭い、9月29日、降伏を余儀なくされた。
反逆の王子と叛徒に対する戦後の処置は過酷を極めた。ムラトはサヴジの目を刳り抜き間もなく死に処した。反乱軍の若いトルコ人貴族は残虐な方法で死に処せられた(ムラトは青年貴族の父達に手ずから息子達の処刑を行わせ、拒否した者は親子共々処刑したという)。ムラトは東ローマ側の責任も追及し、アンドロニコス4世と、その息子ヨアニス7世は目潰しの刑罰を受け廃嫡された(その処置は不完全で、二人とも後に視力を回復し再び帝位を狙う事になる)。
サヴジの廃嫡と処刑により、オスマン朝の後継者にはバヤズィト1世が選ばれた。サヴジには息子が一人いたが、その運命については知られていない。
(本項目の東ローマ関連の表記は中世ギリシア語の発音に依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照)