デメトリオ・アルベルティーニ
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デメトリオ・アルベルティーニ(Demetrio Albertini、1971年8月23日-)はイタリアの元サッカー選手。ポジションはMF(レジスタ)。2005年12月引退。
イタリア歴代でも稀に見る逸材。ガッリアーニ氏曰く、最近20年間のミランで最も素晴らしい4人の中の1人(フランコ・バレージ、アレッサンドロ・コスタクルタ、パオロ・マルディーニ、デメトリオ・アルベルティーニ)。
目次 |
[編集] 略歴
- 1988年-1990年 - ACミラン(イタリア)
- 1990年-1991年 - パドヴァ(イタリア) レンタル移籍
- 1991年-2002年 - ACミラン(イタリア)
- 2002年-2003年 - アトレティコ・マドリード(スペイン)
- 2003年-2004年 - ラツィオ(イタリア)
- 2004年7月-2004年12月 - アタランタ(イタリア)
- 2005年1月-2005年12月 - バルセロナ(スペイン)
[編集] ACミランレギュラーへ
10歳そこそこでイタリアの名門ACミランの入団テストに難なく合格。ジャンニ・リベラの再来と言われ、その類まれなる才能を見出されたアルベルティーニは、わずか17歳5ヶ月でセリエAデビューを果たすが、当時のミランはルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールト、フランコ・バレージ、パオロ・マルディーニら錚々たる顔ぶれが揃い、後にリーグ戦無敗優勝を含む3連覇を達成するほどのチームだったため、出場機会に恵まれず、90-91シーズン11月にパドヴァにレンタル移籍される。しかし、パドヴァで経験を積んだアルベルティーニは、翌シーズンミランに戻ると、その年から中盤に君臨し、セリエAで3連覇を成し遂げるなど、チーム内で確固たる地位を築いていった。
[編集] 活躍
その後、ミランでの公式戦出場406試合、(セリエA293試合、コッパ・イタリア46試合、ヨーロッパ・カップ戦67試合)、28得点(セリエA21得点、コパ・イタリア2得点、UEFAチャンピオンズリーグ5得点)の記録を残し、獲得したタイトルは、スクデット5回、イタリア・スーパーカップ優勝3回、UEFAスーパーカップ優勝1回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝1回にものぼっている。ミランでの406試合出場は歴代8位の記録である。
イタリア代表でも、94、98年W杯に出場。ユーロも96、00に出場。94年W杯では、サッキ監督がもう1人の守備的MFであるディノ・バッジョに対して「アルベルティーニの左10mに平行になるようにいろ」という指示を受けており、弱冠22歳にしてサッキ監督から全幅の信頼を得ていたのである。02年W杯はアキレス腱の怪我によりメンバーから漏れる。このW杯では全くと言っていいほど中盤からのゲームメイクができず、ただロングパスを放り込むだけ。アルベルティーニの不在を痛感させた大会であった。(しかし06年W杯ではレジスタの後継者としてアンドレア・ピルロが活躍し、イタリアの優勝に貢献している。)代表での79キャップ(主将5試合)はイタリア歴代8位という記録である。イタリア代表伝統のアルファベット順の慣例に従い、バルセロナ五輪、ユーロ96で背番号10をつけたこともある。 チェザーレ・マルディーニ監督をして「アルベルティーニがくしゃみをするとイタリア代表は風邪をひく」とも言わしめた。アルベルティーニはイタリアの心臓であった。
[編集] 現役としての晩年
02-03シーズン、スペインの名門アトレティコ・マドリードへ電撃レンタル移籍。フエラ(スペイン語でアウェーの意味)のマドリーデルビー(マドリーダービー)では後半50分にフリーキックから同点ゴールを叩き込んだ。このゴールは専門誌のベストゴールに選ばれた。その後、03-04シーズンにラツィオ、04-05シーズンにアタランタとクラブを転々とする。
04-05シーズン冬、かつてのチームメイトであるライカールトが指揮をとるバルセロナへ移籍したが、怪我もあり、期待された活躍は出来なかった。2005年夏に契約が満了し、2005年12月6日に現役引退を発表。引退会見の式場にはアドリアーノ・ガッリアーニ、パオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタ、ホアン・ラポルタ、フランク・ライカールト、マルコ・ファンバステン、カルレス・プジョルなど親交の深い人々が駆けつけ、2006年3月15日にサンシーロで引退セレモニーが行われた。現在監督になるための勉強中である。
[編集] プレースタイル
中盤の底でチームの攻守のバランスをとりつつ、正確な長短のパスで攻撃の起点となる。イタリアで”レジスタ”と呼ばれるポジションを体現した人物と言って良い。特に彼は、単に起点となるだけでなく、アシストも多く決めており、チームの勝利への貢献度は極めて大きかった。 FKやミドルシュートも得意としており、アトレティコ・マドリー時代であった02-03シーズンのマドリーダービーでは後半ロスタイムのラストプレーでFKの同点ゴールを決めるなど、精神的にも強い選手であった。 PKも非常に上手い選手であり、94年W杯決勝では弱冠22歳で2番手キッカーを任されたり、晩年の各クラブでもPKを任されたりしていた。
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