トランシルヴァニア
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トランシルヴァニア(Transylvania)はルーマニア中部・北西部の歴史的地名。
トランシルヴァニアは「森の彼方の国」という意味であり、12世紀のラテン語文献に「Terra Ultrasilvana」の形で初めて現われる。これはハンガリー人(マジャル人)がハンガリー南部の平原から西カルパティア山脈以遠の地を指して呼んだ語であった。ハンガリー語では、元来同じ意味を持つエルデーエルヴェ(Erdőelve)という名で呼ばれ、これがラテン語名の起源である。中世以降のハンガリー語では、エルデーエルヴェから派生したエルデーイ (Erdély) と呼ばれ、ルーマニア語でもそれに由来するアルデアル (Ardeal) という名称をトランシルヴァニアと併用している。13世紀以来の入植の歴史を持つドイツ語では、初期の入植地の数に準じて、「七つの都市」を意味するジーベンビュルゲン (Siebenbürgen) という名で呼んでいる。領域としてのトランシルヴァニアは、狭義の定義と広義の定義に分けられる。中世にハンガリー王国の一地域として、また近世(16-17世紀)に独立侯国として国制上の領域をなした地域を狭義のトランシルヴァニア、1920年のトリアノン条約でルーマニアに割譲された旧ハンガリー領(ハンガリー大平原、バーナートの一部を含む)全体を指して用いられる広義のトランシルヴァニアが、現在は文脈で使い分けられている。
自然地誌的に見れば、それぞれ東カルパティア山脈、南カルパティア山脈、西カルパティア山脈と呼ばれるこれらの3山脈に囲まれた台形の地域は、南ロシアからドナウ平原を経てハンガリー大平原に連なるステップ上の地帯に対して、孤城の観を呈している。東カルパティア山脈および南カルパティア山脈には2,000メートルを超す山が多く、これに比し西カルパティア山脈の山々は一般に低いが、これらの山脈に抱かれたトランシルヴァニアはそれ自体1つの大きな盆地といってよい。しかもその内部には高原、丘陵、渓谷地帯や中心部のトランシルヴァニア平原があって変化に富んだ景観が広がり、平野部はもちろん1,300メートルぐらいの高地にまで集落が散在している。肥沃な高地と牧草地、さらに豊かな鉱物資源(貴金属、岩塩など)はこの地域の経済の発展を促してきた。しかもこの孤城は山脈を横切る多くの渓谷によって東欧の諸地方と結ばれ、古くから東西貿易の重要路の1つと見なされてきた。
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[編集] 歴史
[編集] 多民族の共生地域
トランシルヴァニア社会の特色を生み出した主要な要因として、その民族構成が挙げられる。歴史的に見て主要な民族は、ルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人であるが、過去にさかのぼってこれら住民の絶対数を算出することはほとんど不可能に近い。近代に入ると1784年から1787年にオーストリアのヨーゼフ2世が行った最初の人口調査以来、幾度か国勢調査が行われているが、その時々の支配民族の政治利害によって恣意的な調査が行われた。そのため、それの利用には細心の注意を払わなければならないが、1910年の調査では、総人口5,257,000人のうち、ルーマニア人53.8%、ハンガリー人28.6%、ドイツ人10.8%、1956年の調査では、総人口6,232,000人のうち、ルーマニア人65%、ハンガリー人25%、ドイツ人6%となっており、これらの数字から明らかなように、ルーマニアのトランシルヴァニア併合以後ルーマニア人の人口比の増大が目立っている。
このように諸民族が共存しながら領土問題が絡むために、従来トランシルヴァニアの歴史は民族的軋轢の舞台として描かれ、あるいはそれぞれの民族の立場から記述される傾向が強く、それが客観的なトランシルヴァニア地域史の研究を妨げてきた。事実トランシルヴァニアは、ドイツ人にとってはその植民地が西欧キリスト教文明を伝播し外敵からこれを防衛した橋頭堡であったし、ハンガリー人にとっては特にオスマン帝国支配の時期に民族文化の伝統を育み続けた温床であり、またルーマニア人にとってはダキア・ローマ時代以来の民族の揺籃の地であり、かつその民族運動の発祥地でもあった。しかし恵まれた自然の下での諸民族の共生が独自の地域文化を生み出し、また特に進歩的知識人や民衆レベルでの友好的な紐帯が結ばれた諸事実も見落としてはならない。
[編集] 古代の国家と定住
歴史が確認しうるトランシルヴァニア最古の国家は、インド・ヨーロッパ語系のダキア人の国であり、その主邑は今もなお廃墟の残るサミルゼジェトゥサであった。トランシルヴァニアの鉱物資源に目をつけたローマ人は106年のトラヤヌス帝のときにこの地を征服し、以後アウレリアヌス帝がローマ軍の撤退を命じた271年まで、ここを属州ダキア州とした。その後のいわゆる民族移動期にはゴート人、フン人、ゲピード人、アヴァール人、スラブ人の諸族がこの地に移住し、9世紀にはブルガリア王国が支配していた。ダキア人とローマ軍撤退後もこの地に残ったローマ人との子孫である原ルーマニア人が、ほぼこのころまでに民族として形成されていったとされる。彼らはやがてブラフと呼ばれるようになり、10世紀ごろには特にカルパティア山脈の高原地帯(ハツェグ、ファガラシュ、マラムレシュなど)にブラフの法と称される慣習法に基づく共同体を営んでいた。また平野・丘陵部でスラブ人と共住し、彼らから農業技術を学んだであろうことは、スラブ語起源の農業用語がルーマニア語の中に多く取り入れられていることからも推測できる。
[編集] マジャル人のハンガリー王国
フィン・ウゴル語系のマジャル人は、9世紀末に東方からハンガリー盆地に移住し、パンノニア平原に建国した。彼らのトランシルヴァニアへの移住と支配の過程については諸説に分かれているが、遅くとも12世紀にはハンガリー盆地周辺の一円が、ハンガリー王国の支配下に置かれた。彼らは都市を築き県制度を導入し、多くの共同体の土地が奪われて王領または聖俗貴族の領地となった。12世紀にトランシルヴァニア侯が置かれ、また身分制議会が設けられた。マジャル人移住者の多くは商人と農民であったが、ルーマニア語の町 (oraş) 、商品(marfá)等の言葉がハンガリー語起源であることからも分かるように、彼らは都市経済を発達させた。しかし社会の封建化に対しては原住民の抵抗も見られ、例えばブラフ、スラブ人のクネズ(軍事、仕法、徴税を司る地方の頭目)の制度のように、なおしばらく存続したものもあった。また外敵の防衛と経済発展のために、ハンガリー国王は外国人植民者やセーケイ人を利用しなければならなかった。セーケイ人は現在ではマジャル人に全く同化されているが、その起源はテュルク系のブルガール人に属すともいわれ諸説あり、独自の共同体組織と慣習を維持して、王国の防人的役割を果たし、12世紀中頃まではビホル地方に居たが遅くとも13世紀には現在の居住地であるトランシルヴァニア東部に移住した。
[編集] ドイツ人の移住
ドイツ人の移住に関する初期の資料は少ないが、その植民は12世紀に始まっている(東方植民)。ハンガリー国王アンドラーシュ2世は1211年にドイツ騎士団にトランシルヴァニア南東部のブラショブを含む地を与え、ドナウ平原を支配していたトルコ系のクマン人に対抗させたが、これは1225年に廃止された。しかし1224年の金印憲章によってドイツ人植民者に特権が与えられたため、以後植民者の数は増大した。彼らは最初トランシルヴァニア南部と北東部に移住し、そこから他地方に広がった。彼らはその後総称してザクセン人と呼ばれるようになるが、出身地はさまざまであり、ただザクセン出身者の組織が最も整っていたためにそう呼ばれるようになったのであろう。彼らは商人と農民であったが、特にドイツ風の諸都市を建設し、それら諸都市域を総称したジーベンビュルゲン(7つのブルグ)という呼び名はやがてトランシルヴァニア全体を指すドイツ語呼称となった。この7つのブルグがどの都市を指すかは明確でないが、シビウ、クルジュ、ブラジョブ、ビストリツァ、シギショアラなどとされる。
ザクセン人は国王の保護の下に商業活動の自由、土地の自由処分権などを獲得、慣習法の遵守など自治特権を認められていた。14世紀前半にはその経済発展を背景に、マジャル人貴族の支配を排除した独自の行政単位、シュトゥール制を築いた。各シュトゥールは都市を中心に農村部を含み、ザクセン人から選ばれ国王に任命された国王裁判官が置かれ、最高機関としてシュトゥール議会を持っていた。ザクセン人はこうして、マジャル人支配層、セーケイ人とともにトランシルヴァニアの特権階級を形成し、フス派戦争の影響を受けた1437年のマジャル人、ルーマニアの農民反乱(ボブルナ農民蜂起)の鎮圧後、この3者で三民族同盟が結ばれる。この同盟でいう民族は民族的区分とともに身分的区分を含み、マジャル人、ザクセン人、セーケイ人のみが民族として公認され、ルーマニア人は否認された(この原則は19世紀まで維持された)。また、トランシルヴァニアではカトリックが公認宗教となり、ルーマニア人の東方正教は許容される宗教とされた。さらに15世紀後半になると、ザクセン人は全シュトゥールと特別区を統合したザクセン議会を創設し、ハンガリーの県制度から区別された独自の立法・行政・司法権を持つ自治組織を形成した。
ザクセン人の都市は、シビウとブラショブに代表されるように、15世紀、16世紀には東西交易と鉱工業で栄えた。東西交易の主要ルートの1つはトランシルヴァニアを経て中央に通じる道であったが、特にクルジュ、シビウ、ブラショブは反映し、オリエント商品の取引が盛んだった。カルパティア山脈の鉱山の開発にもフッガー家を中心にザクセン人の技術が活用され、産出した大量の銀は西欧の市場に送られた。またこの時期は学術・文化の領域でも活気に溢れ、ジーベンビュルゲン人文協会にはエラスムスの友人も少なくなく、パラケルススもこの地を訪れている。しかし、ザクセン人の社会は閉ざされた身分制社会で、ハンガリー人、ルーマニア人の村落と隣接しながらも、ザクセン人が開発した三圃農法や重量犂がそれらの村に伝えられるには何世紀も要し、また長い間、他民族との通婚は禁止されていた。
[編集] オスマン帝国とトランシルヴァニア侯国
1526年のオスマン帝国に対するモハーチの戦いでの敗戦により、ハンガリー王国は3分され、トランシルヴァニアはオスマン帝国スルタンの宗主権を認める独立の侯国となった。旧ハンガリー王国の他の地域よりも恵まれた条件にあったトランシルヴァニアには、独自の発展を遂げる可能性があった。折りしも宗教改革の運動はこの地にも波及し、ザクセン人はルター派、マジャル人は改革派(カルヴァン派)に改宗した。宗教改革は民族意識を目覚めさせ、クルジュ市の改革派への改宗のときのように、マジャル人とザクセン人の対立の様相を呈したが、諸民族の共存関係の上に立ってきたトランシルヴァニア社会の特質により、1557年にはカトリック、ルター派、改革派がともに公認宗教と認められ、宗教戦争の時代のヨーロッパにおいて初めて宗教的寛容が実現され、1571年には、反三位一体派も公認宗教となった。東方正教は容認される宗教の地位にとどまったたが、トランシルヴァニアのルターと呼ばれたブラショブのドイツ人牧師ヨハネス・ホンテルスによる印刷術の導入は、ルーマニア人コレシによるスラブ語の教会聖典の印刷を可能にした。16世紀末にトランシルヴァニア公バートリはポーランド国王ステファン・バートリとなり、また三十年戦争でトランシルヴァニア侯国は国際政治上重要な役割を演じ、ウェストファリア条約にも独立国として名を連ねたが、これらはトランシルヴァニア侯の権力の増大を意味した。
[編集] オーストリアの支配
17世紀末におけるオーストリアのオスマン帝国への軍事的勝利は、再びトランシルヴァニアの自立を脅かした。1691年以降、トランシルヴァニアはオーストリア統治下に置かれる。この頃トランシルヴァニアの官房長ベトレン・ミクローシュはオーストリアから信教の自由と自治の保障を得たうえでトランシルヴァニアの自立性を守ろうとするいわゆるトランシルヴァニア主義の思想を唱えた。しかしオーストリアに対する1703年から1711年にかけてのラーコーツィ・フェレンツ二世の解放戦争は、マジャル人、ルーマニア人、スロバキア人、ウクライナの農民が参加して戦われたが、これが挫折した後は、トランシルヴァニアが独立性を確保する可能性は失われた。1713年、オーストリアはトランシルヴァニア総督を置き、ハンガリーとは政治的に分離した。オーストリア政府は、ルーマニア人の懐柔同化政策をとり、彼らのローマ教皇の権威を認めさせるカトリックとの合同教会を作った。皮肉にも合同教会の聖職者の中からルーマニア人の民族運動の指導的知識人(トランシルヴァニア学派)が現われ、1791年にはルーマニア民族の同権を求める皇帝への請願書が提出された。これは却下されたが、身分制原理に対して住民数に応じた民族的権利の要求という新しい観点を定着させ、その後の民族運動の出発点となった。
[編集] 民族運動の行方
1848年から1849年にかけてのハンガリー革命は、トランシルヴァニアをハンガリーに統合したが、ハンガリー人地主に反対するルーマニア農民と自治権の剥奪に反対するザクセン人はハンガリー革命軍と戦い、他方革命末期にハンガリーとワラキアの革命家の間に同盟協定も成立するが、最終的には、オーストリア軍とロシア軍の干渉によって双方の革命運動は鎮圧された。1867年以後のオーストリア・ハンガリー二重帝国の時期に、トランシルヴァニアはハンガリー王国に編入されたが、1868年の民族法と教育法に始まる民族差別政策はそれぞれの民族運動を激化させていった。1876年にはザクセン人とセーケイ人の自治組織は廃止され、これによりザクセン人は特権的民族から一少数民族へと変容し、セーケイ人はマジャル化が強まった。これに対し第一次世界大戦によるオーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー二重君主国)の崩壊過程で、1918年12月にアルバ・ユリアで開かれたルーマニア民族集会ではトランシルヴァニアとルーマニアの統合が決議された。国際法上は1920年のトリアノン条約によって正式にこれが決定されたが、両大戦間期には土地改革によって土地を失ったハンガリー人地主への補償問題をはじめ、少数民族となったトランシルヴァニアのハンガリー人の処遇が国際政治の問題となった。1940年、ヒトラーとムッソリーニによるウィーン裁定によってトランシルヴァニアの北半分はハンガリー領となったが、第二次世界大戦後の1947年のパリ条約によりルーマニアの領有権が認められた。なお、第二次世界大戦でドイツ占領下に置かれた時期、多数のザクセン人が自発的あるいは強制されてナチスのドイツ民族団に参加し、そのためドイツ軍の退却時にはドイツに逃れたものも多かった。
社会主義の時期、法的には少数民族への差別政策は廃止され、外交上も社会主義国間の一枚岩的な協調を協調するイデオロギーによって少数民族問題は表面化しなかったが、しかし公式見解でいわれたような少数民族問題の解消は生じなかった。特にチャウシェスクの支配期には、かつてのセーケイ人地域に作られたハンガリー人自治区の廃止、ルーマニア・ナショナリズムの台頭、1980年代末に始まる農村再編政策、経済的な生活苦の増大などのために、少数民族の不満は高まり、特に西ドイツへ移住するドイツ人の数が増えた。