ノヴゴロド公国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ノヴゴロド公国若しくはノヴゴロド共和国は、首都を現在のロシア連邦共和国の都市ノヴゴロドに置いていた古代~中世のロシアの主要な都市国家の一つ。後述するように中世には特殊な貴族共和制によりしばしば「ノヴゴロド共和国」と呼ばれこちらの名前が定着しつつある。
特に「タタールのくびき」にロシア全体があえぎ、北方十字軍がスラヴ人へロシア正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制していた13世紀のロシアの中心であった。
なお、暗黒時代にあったヨーロッパ中世にあって珍しく庶民の日常が多数記された白樺文書が多数発見されている。
目次 |
[編集] 古代
都市としての纏まりが出来たのは、西暦850年代と言われている。862年スウェーデン・ヴァイキングのリューリクがこの街を征服し、リューリクは879年まで政権に留まった。リューリク時代はロシアの中心地となったが、死後リューリクの後継者がキエフに移ったため、政治の中心地は以後キエフ公国へと移った。しかしノヴゴロドは、商業、工業が伸張し、自由都市となり、キエフ公国から独立したノヴゴロド公国へと発展していく。
またリューリクの名はロシア人の貴族の血筋として引き継がれて行くことになった。
[編集] 中世
[編集] 特殊なノヴゴロドの政体
ノヴゴロドは、公が支配する公国であるが、実態は貴族共和制である。名目上の君主としてロシアの諸公国から貴族を推戴するが実質的な公権は無く、貴族の利権にそぐわなければ罷免する権利があった。ノヴゴロド公国における公はごく限られた権限しか持たず、その実態はどちらかといえば傭兵隊長としてのみ期待されていた。公が自分の領土から連れてくる従士団(ドルジーナ)は兵力に乏しいノヴゴロド公国にとって貴重な戦力であった。また”公”はロシア語ではクニャージ(kniaz')と訳されているが、本来の意味は”王”である。しかしながらロシアには、公に相当する語は、クニャージしかなく、ノヴゴロド公国においても、外国の君主である王を除いて王と呼び著わすことはない。
名目上の君主として公を推戴する一方、ノヴゴロドの都市民達は選挙を行いノヴゴロドの市長を選んでいた。市長の権限は公に勝るとも劣らず、軍事以外の多くの政務を市長が掌握していた。ノヴゴロドの市長選は政争や外交問題と密接に絡み合っていた。
[編集] ハンザ同盟とノヴゴロド
地中海~黒海~バルト海を結ぶ交易ルート「ヴァリャーギからギリシアへの道」のバルト海側の出入り口に位置するノヴゴロドは古くから商業都市として栄えてきた。東ローマやイスラム諸国と盛んに交易をし、ノヴゴロド公国には莫大な富が集まった。
ノヴゴロドはハンザ同盟の四大商館の一つである。木材や蜜蝋なども輸出していたが、なにより最大の輸出品は毛皮であった。
[編集] アレクサンドル・ネフスキー時代
アレクサンドル・ネフスキーの項を参照。彼の戦功は疑問視されているが、ロシア史では栄光の時代とされている。なおネフスキーの末子がモスクワ大公となり、後にノヴゴロドは征服される。
[編集] ノヴゴロド公国の終焉
アレクサンドル・ネフスキーの末子、モスクワ公ダニイル・アレクサンドロヴィチによって占領され、ノヴゴロド公を兼任される事となった。1478年、モスクワ大公イヴァン3世によって完全に征服され、ロシア国家の一都市となり、公国の時代は終わりを告げた。
カテゴリ: ロシアの歴史 | 中世ヨーロッパ | 歴史関連のスタブ項目