ヒクソス
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ヒクソスはエジプト第2中間期と呼ばれる時代に古代エジプトに登場した人々。彼らは一般にシリア・パレスチナ地方に起源を持つ雑多な人々の集団であったと考えられている。ヒクソスと言う呼称は「異国の支配者達」を意味する古代エジプト語、「ヘカウ・カスウト」のギリシア語形に由来する。ヘカ・カスウトはしばしば「羊飼いの王達」とも訳されていたが、現在では誤訳であるとされている。
トリノ王名表によれば6人のヒクソス王が108年間在位したと伝えられている。マネトの記録によれば第15王朝の王も6人とされており、一般に「ヒクソス」、「ヒクソス政権」などと表現した場合、第15王朝を指す。また、議論のある所ではあるが、第15王朝を大ヒクソス、第16王朝を小ヒクソスと呼ぶ場合もある。
詳細はエジプト第15王朝、及びエジプト第16王朝の記事を参照
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[編集] ヒクソスの起源
ヒクソスがどのような起源を持つのか、と言う問題はエジプト学における未解決の問題である。ヒクソスに関する資料は、その知名度に反して余り多く残されていない。
ヒクソス(ヘカ・カスウト)と言う言葉は少なくても古王国末期から存在しており、この表現によってヌビア地方の首長を表している。中王国時代に作られ、ベニ・ハサンに残る墳墓には、「異国の首長(ヘカ・カスウト)アビシャイ」が37人のアジア人を率いてエジプトへ産物を運ぶ光景を描いたものがある。このように古い用例においてのヘカ・カスウトとは、言葉通りシリア、パレスチナ、ヌビア地方にいた異国の首長や、エジプトに移住してきた外国人のリーダーを指したものであったと考えられ、後にエジプトの支配者として登場する政治勢力「ヒクソス」と直接結びつけることはできない。
ヘカ・カスウト(ヒクソス)という語が、エジプトを支配する異民族を指す呼称となったのは、実際にエジプトを支配するようになった異民族達がヘカ・カスウトの語を一種の尊称として使用するようになってからである。
エジプトを支配したいわゆる「ヒクソス」がどのようにして形成された集団であるのか、詳細には分からない。かつてエジプト学者ウォルフガング・ヘルクを始め、何人かの学者はヒクソスとフルリ人を結びつけた議論を展開した。それは主に第2中間期の層から発見される土器が、北シリアで発見されるハブール土器やヌジ土器といったフルリ人と関連付けられる土器と同様の装飾を施されていたこと等を論拠としている。
フルリ人の概要、およびハブール土器、ヌジ土器についてはフルリ人の項目を参照
しかし、エジプト側で発見されている土器はハブール土器ともヌジ土器とも異なるタイプのものであり、ただ同じような装飾を施しているという点からヒクソスとフルリ人の関係を想定するのは困難であった。また、ヒクソスの人名はほぼセム語系といってよく、言語学的にヒクソスとフルリ人を結びつけるのも不可能であり、現在ではヒクソスとフルリ人とを関連付けた説は退けられている。
[編集] 「アジア人」との関連性
ヒクソスとの関係が明白なのは同時代のシリア・パレスチナ地方にいた西セム系の人々である。ヒクソスの人名については明らかにシリア・パレスチナ地方と共通した西セム語の要素(ヤコブ等)が見られ、またヒクソスの時代と前後してアナトやバアルと言ったシリア地方の神がエジプトに持ち込まれており、ヒクソスと「アジア人」の間に強い繋がりがあったこと自体は疑う余地が無い。ヒクソス時代の遺跡から発見される彼らの物質文化はシリア、パレスチナ地方の文化とエジプトの文化の特徴が混合したものである。神殿の建築や土器、金属加工の形式などはシリア、パレスチナ地方のそれと類似しているが同一ではない。ロバの犠牲などの儀式が行われた事もわかっており、このような習慣はパレスチナ地方でも見られる。
また、ヒクソスに先行する紀元前3千年紀の最末期から紀元前2千年紀前半に、西セム系のアムル人がメソポタミア各地に移住して王朝を次々と打ち立てた事は極めて興味深い事実である。このアムル系王朝が栄えた時代は慣例的に古バビロニア時代と呼ばれ更に前期(イシン・ラルサ時代)と後期に分類される。ヒクソスの政権奪取はまさに西アジアにおけるこの民族移動の時代に起きた出来事であった。上記したヒクソスと関係性のある「アジア人」の中でもアムル人の存在はしばしば指摘される所である。
他にヒクソスの移動と旧約聖書に記されたようなヘブライ人の移動の説話を結びつけた説も存在する。創世記の記述によればヤコブの一行(イスラエル)はベール・シェバからやってきてエジプトのゴシェンの地に入り、そこで戦車に乗ったヨセフと会ってこの地に居住することを許されたとある。この説話や、出エジプト記(エクソダス)にあるヘブライ人の移動をヒクソス時代の「アジア人」と関連付ける説である。支配者であるヒクソスの直接的な関係ではなくても、第2中間期に下エジプトで活動した、ヒクソスを含むセム系アジア人の中にヘブライ人が含まれていたという説は一定の支持者を持つ。
このよう点から今日しばしばヒクソスは「アジア系の異民族」などと説明される場合が多い。ただし、詳細についてまだ不明な点が数多くあることは留意する必要がある。
[編集] ミュケナイとの関係
ヒクソスの活動とミュケナイとの関係は今日非常に注目されている要素である。これはアヴァリスの遺跡(テル・アル=ダバア遺跡)で、クレタ島のクノッソス宮殿に類似した「牛とび」を描いた壁画の破片と、クノッソスで発見された第15王朝の王キアンのカルトゥーシュ名を記したアラバスター製水差しの蓋の存在によって、ヒクソスとミュケナイ文化圏の間に交渉があったことが明らかとなったためである。特にアヴァリスで発見された壁画は、ミュケナイのものを真似たというよりはミュケナイ文化圏の人々がこの時期のエジプトに移住していた可能性が考えられている。
ミュケナイ文化圏の影響についてはまだ研究途上であり具体的にはわかっていないが、興味深いテーマとして多くの学者がこれに触れている。
[編集] 「侵入」に関する問題
古代エジプトの伝統的な歴史認識において、ヒクソスは野蛮な侵略者と見なされていた。プトレマイオス朝時代に『エジプト誌』(アイギュプティカ)を著したマネトの記録では、ヒクソス(第15王朝)による支配をエジプトを襲った災厄、異民族支配として描いている。また、ヒクソスによる支配からエジプトを「解放」したテーベ(古代エジプト語:ネウト 現在のルクソール)政権(第17、第18王朝)が残した記録にはヒクソス支配をして「アジア人の恐怖」と呼ぶものもある。
ヒクソスとは軍事力でもってエジプトを征服した異民族政権であるという見解は、このような古代エジプト人の記録に加えて戦車、複合弓といった「新兵器」の使用、そして上記のようなシリア・パレスチナ地方に起源を持つと考えられる習俗、人名などの存在によっている。
これに対して異なるヒクソス観を打ち立てる説も出されている。まず多くのエジプト学者が言及しているように、ヒクソスに冠する古代エジプト人の記録は、ヒクソスからエジプトを「解放」した政権による政治宣伝や、「アジア人」に対するエジプト人の蔑視、偏見が強く介在しており、信憑性に問題がある物が極めて多い。また、ヒクソスに関する同時代史料は後世のエジプト人による破壊のためにほとんど残されていない。そして数々の文献史料や考古学的発見によって「アジア人」のエジプト移住が、第1中間期から継続的に行われていたことが判明しているのである。学者の中には、ヒクソスによるエジプト支配は外部からの侵入によるのではなく、エジプト内部での単なるクーデターに過ぎないとする説を唱える者もあり、広い支持を得ている。
実際に当時の僅かな記録からは、ヒクソス(第15王朝)に仕えたエジプト人官僚の存在が明らかとなっており、またヒクソスがエジプト文化を特に排斥した形跡も見つかっていない。むしろ逆にエジプトの伝統を数多く導入しており、王名もエジプト式にカルトゥーシュに囲んで表記された。恐らくヒクソスと同時代に彼らの支配地に生きたエジプト人の多くは、それほど強く「異民族支配」を意識することは無かったとも言われている。
どちらの見解にも支持があるが、いずれにせよ古代エジプト人のヒクソス観をそのまま継承する事は極めて危険である。
[編集] 宗教
「ヒクソス」を含むアジア人の移住者達は、シリア・パレスチナ系の神々をエジプトに持ち込んだ。代表的なものは北シリア地方の嵐の神で船乗りの守護神であったバアル・ゼフォンである。この神がエジプトの嵐の神セトと同一視されたため、元来上エジプトの神であったセト神崇拝が下エジプト東部で強い崇拝を受けることになった。
ヒクソスの拠点となったアヴァリスでは、第14王朝時代にセト神が主神となった。このことは第14王朝の王ネヘシに対する修辞の1つに「フト・ウアレト(アヴァリス)の主、セト神に愛されし者」という表現があることから知られる。
葬制についてはより顕著にシリア・パレスチナの影響を見ることができる。というのは、この時期のアジア系の人物の墓では頭を北に、顔を東に向けるという伝統的なエジプトの埋葬法とは異なり、死者の頭を南にして顔を東に向けるという埋葬法が取られており、墓にはシリア・パレスチナ風にロバが副葬されているのである。