ヒャルマル・シャハト
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ホレイス・グリーリ・ヒャルマー(ヤルマル)・シャハト(Horace Greely Hjalmar Schacht、1877年1月22日 - 1970年6月3日)は、ドイツ・ヴァイマル共和政期の財政家。ドイツ国立銀行総裁。ドイツ経済大臣(1935年 - 1937年)。
現在はデンマーク領となっているティングレフで生まれる。医学・政治学・心理学を勉強し1899年に経済学の博士号を取得。ドレスナー銀行に入社し、1905年に渡米、ジョン・ピアモント・モルガンやセオドア・ルーズベルトと会談している。1916年にドイツ国立銀行理事に就任、1923年に首相グスタフ・シュトレーゼマンや財務大臣ハンス・ルターの下で通貨全権委員に就任。破滅的なほどに亢進していたインフレーションをデノミネーションの実施とレンテンマルクの発行で対処、沈静化に成功した。この時の経験を買われドイツ国立銀行総裁となり、ヤング案やドーズ案の取りまとめに奔走した。
1930年3月7日にドイツ国立銀行総裁を辞任、この頃アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」に感銘を受け、ナチスに協力の姿勢をとり始める。ヒトラーが政権を握った後の1933年3月17日にドイツ国立銀行総裁に復帰、更に1934年8月に経済大臣に指名されフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策に類似した経済政策を実行に移した(もっとも、これらの政策はヒトラーの前任者クルト・フォン・シュライヒャーが計画したものであった)。その後、1935年5月に戦争経済準備のための全権委員に指名されるが、軍備拡張がインフレを招くとしてヘルマン・ゲーリングと対立、1937年11月に経済相と全権委員を解任される。しかし1939年1月にドイツ国立銀行総裁に三度復帰、1943年1月まで務めた。しかし1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件が発生するとダッハウ強制収容所に収容、1945年4月に連合国によって解放されるまで"特殊囚人"として軟禁されていた。
解放後は、一転ナチス独裁政権の強化に貢献した疑いで戦争犯罪人として起訴。ニュルンベルグ裁判で裁かれたが、無罪判決を受けて釈放された。だが、その後の非ナチ化裁判で労働奉仕8年の刑を受け、1948年9月まで服役した。釈放後はデュッセルドルフ銀行でインドネシア・エジプトなど発展途上国の経済・財政に関するアドバイザーとして活動した。1970年、自宅での転倒事故が原因の塞栓症で死去した。