フィンランド大公国
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フィンランド大公国(フィンランドたいこうこく、フィンランド語でSuomen suuriruhtinaskunta、ロシア語で Великое княжество Финляндское)は1809年から1917年まで現在のフィンランドにあった国家である。首都はヘルシンキ。
1809年のフレデリクスハムンの和約によってスウェーデンからロシア帝国にフィンランドが割譲されたときに建国された(ウィーン会議によって正式に承認)。フィンランド大公はロシアの皇帝(ツァー)の兼任である。体制はロシア本国がツァーリズムによる専制君主制に対して、フィンランド大公国は立憲君主制であり、独自の議会と政府を有することが認められた。 そのため、フィンランド大公国は「ロシアの民主主義のショーウィンドー」と後世呼ばれることになる。 スウェーデン=フィンランド時代に比べて、アレクサンドル1世によってフィン人の自治が大幅に認められたため知識人を中心に「フィンランド民族主義」が高揚し、フィンランド語の公用語化や民族叙事詩「カレワラ」の編纂などが行われた。
1830年の7月革命をうけてポーランドでは独立戦争が勃発したが、フィンランド大公国では過激な運動は自粛された。しかし、ロシアに忠実な属国というわけではなく、国内の諸制度はロシアから離れ、独立国の様相を呈することになった。
欧州諸国の1848年革命以降、フィンランド人の間では、絶対主義を覆さないロシア政府に対して反感が強まっていった。過激な反政府活動こそなかったが、この頃からフィンランド人たちの独立を求めるナショナリズムが燃上がることとなった。クリミア戦争が勃発すると、フィンランド国内では、ロシアに対する批判が巻き起り、詩人・歴史家のアルヴィドソン、学者ノルデンショルドらがロシア政府の忌諱にふれ、スウェーデンに亡命ないし移住を余儀なくされた。その後、北欧全体に沸上がったナショナリズム(汎スカンディナヴィア主義)が沈静化していったことと、アレクサンドル2世の寛容政策などで一時小康状態となったが、フィンランド大公国は、日増しに民族主義が誇大化していった。
これをロシアは危険と判断しニコライ2世の頃には実力でフィンランド民族主義を弾圧したが、大きな反発を招きフィンランド総督が殺害される事態になった。このような事態は日露戦争というロシア本国の事情で一時小康状態となり、さらにロシア革命の結果、ロシア帝国が滅亡すると、フィンランド議会は独立を宣言。白衛軍(白軍)を結成し、ドイツ、スウェーデンの義勇軍を加えて赤軍の介入を退け、1919年にはフィンランド共和国として独立する。なお、1918年5月から11月までドイツ帝国諸侯をフィンランド大公に迎えているが(実際には王制)、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗戦国になったことを受け、大公国は消滅し、共和制へと移行した。
[編集] 歴代フィンランド大公
- アレクサンドル1世(1809年 - 1825年)
- ニコライ1世(1825年 - 1855年)
- アレクサンドル2世(1855年 - 1881年)
- アレクサンドル3世(1881年 - 1894年)
- ニコライ2世(1894年 - 1917年)
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