ブルガリア君主一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブルガリア君主一覧
本項目では、ブルガリアの君主を掲げる。君主の称号は、はじめはハーン(汗)、キリスト教化したボリス1世のときから王(クニャス)、次いでシメオン1世のときから皇帝(はじめはギリシャ語の”バシレウス”、後にスラヴ語の”ツァール”)が用いられた。一般に「ブルガリア王国」と呼ばれる近代ブルガリアでも、独立後の君主の称号は皇帝(ツァール)であった。
- 年号は、在位年を示す。ただし、8世紀頃までのハーンたちの在位年はおよそである。
目次 |
[編集] 伝説上の君主
- アッティラ(Avitokhol, Attila)(伝説では153年 - 453年。史実では445年 - 453年)
- イルニク(Ernakh)(伝説では453年 - 603年。史実では453年 - 503年)
[編集] 第一ブルガリア帝国(681年 - 1018年)
[編集] ドゥロ家
681年、アスパルフは東ローマ帝国のコンスタンティノス4世と講和を結び、自治と植民を認められる。
[編集] ウキル家
- コルミソシュ(Kormisoš)(753年 - 756年)
- ヴィネフ(Vinech)(756年 - 760年)
- テレツ(Teletz)(760年 - 763年)(ウガイン家)
- サビン(Sabin)(763年 - 766年)(ヴォキル家)
- ウマル(Umar)(766年)
- トクトゥ(Toktu)(766年 - 767年)
- パガン(Pagan)(767年 - 768年)
- テレリグ(Telerig)(768年 - 777年)
- カルダム(Kardam)(777年 - 803年)
[編集] クルム家
- クルム(Krum)(803年 - 814年)
- ドクム(Dokum)(814年 - 815年。ディツェヴグ、オムルタグと共治)
- ディツェヴグ(Decevg)(814年。ドクム、オムルタグと共治)
- オムルタグ(Omurtag)(815年 - 831年。ドクム、ディツェヴグと共治)
- マラミル(Maramil)(831年 - 852年、プレシアンと共治)
- プレシアン(Presian)(836年 - 852年、マラミルと共治。また、マラミルとの同一人物説あり)
- ボリス1世(Boris I)(852年 - 889年)
864年、ボリス1世は自らの称号をブルガール=ハーンからブルガリア王へと改める。
913年、シメオン1世はブルガリア皇帝に即位。
[編集] サムイル家(コミトプリ「伯の息子達」) 「西ブルガリア王国」ないし「(中世)マケドニア王国」
- サムイル(Samuil)(976年 - 1014年。997年まではロマン1世と共治)
- ガブリル・ラドミール(Gabril Radomir)(1014年 - 1015年)
- イヴァン・ヴラディスラフ(Ivan Vladislav)(1015年 - 1018年)
”ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)”のあだ名を持つ東ローマ皇帝バシレイオス2世により、第一ブルガリア帝国滅亡。以後1185年までブルガリアは東ローマ帝国の支配下に置かれる。
サムイル家の血をひく反乱指導者
[編集] 第二ブルガリア帝国(1185年 - 1396年)
[編集] アセン家
- ペタル2世(Petăr II)(1185年 - 1187年)
- アセン1世(Asen I)(1187年 - 1196年)
- ペタル2世(復位、1196年 - 1197年)
- カロヤン(Kalojan)(1197年 - 1207年)
- ボリル(Boril)(1207年 - 1218年)
- イヴァン・アセン2世(Ivan Asen II)(1218年 - 1241年)
- コロマン1世(Koloman Asen I)(1241年 - 1246年)
- ミハイル・アセン(Mikhail II Asen)(1246年 - 1256年)
- コロマン2世(Koloman Asen II)(1256年 - 1257年)
- コンスタンティン・ティフ(Konstantin Tich Asen)(1257年 - 1277年)
- イヴァイロ(Ivajlo)(1277年 - 1279年)
- イヴァン・アセン3世(Ivan Asen III)(1279年 - 1280年)
[編集] テルテル家
- ゲオルギ1世テルテル(Georgi I Terter)(1280年 - 1292年)
- スミレツ(Smilec)(摂政、1292年 - 1298年)
- チャカ(Čaka)(1299年 - 1300年)
- テオドル・スヴェトスラフ(Teodor Svetoslav)(1300年 - 1322年)
- ゲオルギ2世(Georgi II Terter)(1322-1323年)
[編集] シシュマン家
- ミハイル3世シシュマン(Mikhail III Šišman)(1323年 - 1330年)
- イヴァン・ステファン(Ivan Stefan)(1330年 - 1331年)
- イヴァン・アレクサンダル(Ivan Aleksandăr)(1331年 - 1371年)
- イヴァン・シシュマン(Ivan Šišman)(1371年 - 1393年)
- イヴァン・スラツィミル(Ivan Sracimir)(1356年 - 1396年)(ヴィディン公)
1396年、オスマン帝国のバヤズィト1世により、第二次ブルガリア帝国滅亡。以後1878年まで5世紀近くにわたってブルガリアはオスマン帝国の支配下に置かれる。
[編集] 大ブルガリア公国(1879年 - 1908年)
1878年、サン・ステファノ条約によってブルガリアに自治権が認められる。
[編集] バッテンベルク家
[編集] サクスコブルクゴツキ家
[編集] ブルガリア王国(1908年 - 1946年)
1908年、オスマン帝国で起きた青年トルコ革命に乗じ、ブルガリア公フェルディナンドはブルガリア国王フェルディナンド1世として即位した。
[編集] サクスコブルクゴツキ家
1946年、シメオン2世が廃位され、共和制(ブルガリア人民共和国)となる。なお、シメオン2世はその後「シメオン・サクスコブルクゴツキ」(身分的には民間人政治家)として、2001年から4年間ブルガリア共和国首相を務めた。
[編集] 参考文献
- ロバート・ブラウニング著・金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会1995年(第一ブルガリアに関する日本語で読める現在最良の概説書)
カテゴリ: ブルガリアの君主 | ブルガリアの歴史 | 元首の一覧 | ザクセン=コーブルク=ゴータ家 | 歴史関連のスタブ項目