ブレンダ・シュルツ・マッカーシー
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ブレンダ・シュルツ・マッカーシー(Brenda Schultz-McCarthy, 1970年12月28日 - )は、オランダ・ハールレム出身の元女子プロテニス選手。1990年代に活躍し、当時の女子プロテニス界で最速サーブを誇る“ビッグ・サーバー”タイプの選手だった。WTAツアー通算でシングルス7勝、ダブルス9勝を挙げた。既婚選手として、自分の姓「シュルツ」(Schultz)と夫の姓「マッカーシー」(McCarthy)を併用している。夫のショーン・マッカーシー(Sean McCarthy)はアメリカ人で、かつてはシンシナティ大学のアメリカンフットボール選手だった。
9歳からテニスを始め、1986年にプロ転向。初期の活躍は、1988年の全仏オープンと1989年の全豪オープンで4回戦進出がある。1990年と1991年には、2年連続でウィンブルドンの4回戦に進出した。1991年8月にアメリカの「OTBオープン」で女子ツアーのシングルス初優勝を達成する。
1995年4月8日、ブレンダ・シュルツはショーン・マッカーシーと結婚し、2つの姓を併用して「ブレンダ・シュルツ・マッカーシー」と名乗るようになる。この年に両親の双方を亡くす不幸も経験したが、彼女の最盛期はこの年に訪れ、ウィンブルドンと全米オープンの2大会連続で準々決勝進出を果たした。ウィンブルドンでは女子ダブルスでガブリエラ・サバティーニとペアを組んでベスト4に進出し、全米オープンの4回戦では第6シードだった日本の伊達公子を破っている。伊達はこの敗戦により、全米オープンで3年連続ベスト8入りのチャンスを逃した。1997年10月、シュルツ・マッカーシーはカナダの「ケベックシティ」の大会で最後のシングルス優勝を飾っている。
1990年から1997年まで、シュルツ・マッカーシーのサービスは女子最高速度を誇っていた。1997年のウィンブルドンで、彼女はサービスの自己最高速度(時速197.9km = 197.9km/h)を出している。しかしこの年の秋からアメリカのヴィーナス・ウィリアムズが台頭し、シュルツ・マッカーシーよりもはるかに安定した超高速サーブを放つようになる。ヴィーナスの台頭とほぼ同時に、シュルツ・マッカーシーのテニスも衰えが目立ち始めた。1998年はシーズンの半年しか試合をこなせず(年間3勝10敗)、全仏オープンの1回戦敗退後に背中の手術を受けた。その1年後、1999年の全仏オープン1回戦敗退を最後に、ブレンダ・シュルツ・マッカーシーは28歳で現役を引退した。
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