ホセ・ルイス・チラベルト
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ホセ・ルイス・チラベルト(José Luis Félix Chilavert González、1965年7月27日 - )は、パラグアイ出身の元同国代表サッカー選手(GK)。2004年引退。
正確なポジショニング、優れた反射神経、判断力の良さ、積極的な飛び出しなど勇敢なプレーと卓越したリーダーシップでチームを統率するゴールキーパーである。PKストッパーとしても名高いが、むしろPKやFKを決めるゴールキーパーとして有名である。
サッカー以外では貧しい子供や体が不自由な子供たちに対する、募金活動などボランティアにも積極的に協力している。1999年に母国パラグアイで開かれたコパ・アメリカ出場辞退の理由には「経済的に混迷するパラグアイでは国際大会よりも学校や病院が必要」という軍事政権に対する抗議であった。また、グアラニー語の教員免許を持っている。
[編集] 略歴
1965年7月25日パラグアイのルーケで生まれる。1980年に15歳で街のクラブチーム、スポルティボ・ルケーニョ入団、すぐに先発ゴールキーパーを任され活躍した。またパラグアイユース代表にも選出されるなど頭角を現す。
1983年には一部リーグのグアラニへ移籍。1985年からはアルゼンチンのサン・ロレンソでプレーする。1989年にスペインのサラゴサに移籍する。リーガ・エスパニョーラでは最初の年こそ最優秀外国人プレイヤーに選ばれるほどの活躍をみせるが、翌年からは控えゴールキーパーの座に甘んじることになった。
1992年アルゼンチンのベレス・サルスフィエルドに移籍する。ここでチラベルトは大活躍を見せる。1968年以後リーグ戦の優勝から遠ざかっていたペレスが1993年(後期)、1995年(前期)、1996年(後期)、1998年(後期)と短期間に4度も優勝したのはチラベルトの活躍とリーダーシップによるところが大きい。1994年にはベレスを南米チャンピオンに導き、さらにトヨタカップでも強豪ACミランを完封して、世界チャンピオンの座に就いている。 1996年には南米最優秀選手賞を受賞しているが、ゴールキーパーの受賞はチラベルトが初めてであった。また、1995年と1997年には世界最優秀ゴールキーパーに選ばれている。
2002年に移籍したストラスブールでも、2部リーグ降格を防げなかったもののカップ戦では優勝。また、翌シーズンの1部リーグ復帰に貢献した。 2003年にはウルグアイのペニャロールに移籍。一度は引退を決意するもののベレスに誘われ2004年4月までプレーした。 2004年11月に行われた自身の引退試合においてFKを決めて、自身の花道を祝った。
パラグアイ代表に初選出されたのは1989年。1998年と2002年のワールドカップには正GKとして出場。パラグアイ代表をベスト16まで導いた。1998年のフランス大会では5試合で失点をわずか2つにおさえるという大活躍でベストイレブンにも選出された。また、ワールドカップ史上初のゴールキーパーによるゴールシーンを期待されたが、残念ながら実現しなかった。
引退後はパラグアイの大統領を目指しているという。
[編集] 所属チーム
- スポルティボ・ルケーニョ(1980年-1984年 パラグアイ)
- グアラニー(1984年-1985年、パラグアイ)
- サン・ロレンソ(1985年-1989年 アルゼンチン)
- レアル・サラゴサ(1989年-1992年 スペイン)
- ベレス・サルスフィエルド(1992年-2000年 アルゼンチン)
- ストラスブール(2000年-2002年 フランス)
- ペニャロール(2003年 ウルグアイ)
- ベレス・サルスフィエルド (2004年 アルゼンチン)
[編集] 関連項目
- ロジェリオ・セニ(同様にFKを決めるキーパー)
先代: エンツォ・フランチェスコリ |
南米年間最優秀選手 1996 |
次代: マルセロ・サラス |
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