ミハイロ・ペトロヴィッチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
ミハイロ・ペトロヴィッチ(Mihailo Petrović、Michael Petrovic、1957年10月18日 - )は、セルビア・ベオグラード近くのロズニッツァ出身(現国籍はオーストリア)の元サッカー選手、Jリーグ・サンフレッチェ広島監督。現役時代は攻撃的ミッドフィルダー。愛称はミシャ。
目次 |
[編集] 経歴
10歳からサッカーを始め、14歳の時にレッドスター・ベオグラードユースに入る。1974年に当時ユーゴスラビア2部のラド・ベオグラードへレンタル移籍しプロデビュー、2年後の1976年にレッドスター・ベオグラードへ復帰した。1978年にNKオリンピア・リュブリャナへ、1984年にディナモ・ザグレブへ移籍した。1985年にオーストリア1部のSKシュトゥルム・グラーツに移籍、1987年以降は外国人選手としてはクラブ史上初の主将となりチームを引っぱった。1989年、オーストリアに帰化。1993年に現役引退。
旧ユーゴスラビア代表では1982年、スペインW杯予選、イタリア戦に出場している(0-2で敗戦)。
引退翌年の1994年からシュトゥルム・グラーツのアシスタントコーチ兼アマチュアチーム監督に就任(ちなみにトップ監督はイビチャ・オシム)。その後はスロベニアリーグのクラブで監督などを務め、主に中堅から下のクラブを上に上げる仕事をした。2002年には古巣の一つであるオリンピア・リュブリャナで監督を経験している。2003年9月、降格寸前にまでいたったシュトゥルム・グラーツの監督に就任。厳しい予算制約があるなか積極的に若手を起用し、リーグ残留というクラブ目標を3シーズン達成し、2006年5月に契約満了した。
同年6月、FCケルンテルン監督に就任が決定するも、チーム合流前にサンフレッチェ広島がオファーしこれを受諾。
同年6月、Jリーグ下位に低迷していたサンフレッチェ広島監督に就任、停滞していた流れを若手起用やコンバートで乗り切り、見事J1残留させた。
[編集] エピソード
- グラーツとの関係
- イビチャ・オシムとの初めての出合いは、ユーゴスラビアでの選手時代、FKジェリェズニチャル・サライェヴォ監督をしていたオシムの対戦相手として。
- NKオリンピア・リュブリャナ時代にはズデンコ・ベルデニック監督のもとでプレーしている。
- ペトロヴィッチとオシムの違いについて
- イビチャ・オシムのみならず、息子のアマル・オシム、ベルデニックなど、旧ユーゴスラビア系の指導者に数多くの友人がいる。
[編集] 監督としての特徴
- 考えて走るサッカーがコンセプト(イビチャ・オシムと同じ)
- 攻撃的なサッカーを趣向し、ダイレクトパスを中心とした綺麗なパスサッカー
DFラインからパスを繋いで攻撃するため、本来ボランチの戸田和幸や森崎和幸をCBとして起用 - 若手を育てることに定評がある
グラーツ監督時代から積極的に若手を起用、広島監督就任後、青山敏弘・柏木陽介などの若手を見出した
[編集] 語録
- 考えて走るサッカーについて
マラドーナは今でも凄い技術を持っている。ただ彼は走れないから今サッカー選手ではない。サッカーで大事なことはいかにボールのない所で走るか。サッカーにおいて「走る」だけでは足りない「考える」だけでも足りない。「考えて走る」「走って、そして考える」この両方をうまくあわせることが大事。 - 監督業とは
監督業とは医者のようなもの。医者が新しい病気や薬のことを勉強するように サッカーの監督も新しい戦術を吸収しないといけない。 - 本来ボランチの選手をCBとして起用していることについて
ヨーロッパの強いチームを見ているとDFにはテクニックのある選手がいる。後ろから攻撃を組み立てるには後ろに技術のある選手がいる。
[編集] 広島監督就任までの経緯
- 2月 織田秀和広島強化部長がジェフ千葉から選手を借りるために、千葉のトルコキャンプ訪問。その時にイビチャ・オシムを表敬訪問していたペトロヴィッチと会う。その時は軽く挨拶した程度で終わった。
- 4月18日 広島、小野剛監督辞任、望月一頼監督代行就任。
- かつて広島でプレーしたイワン・ハシェックの他、トニーニョ・セレーゾ、アントニオ・ロペス、日本人数名(名前明かされず)らをリストアップ。
- 4月末~5月頭 広島、ハシェックと交渉、好感触を得て本人とは合意するも、家族の了解が取れず、断念。
- 5月末(5月23日) 広島、トニーニョ・セレーゾと交渉、本人とコーチ数名分の高額な契約金が発生するため、断念。
- 5月23日 トニーニョ・セレーゾと交渉一本化と報道される。
- 5月23日 トニーニョ・セレーゾと交渉一本化と報道される。
- 5月末 広島、あるサッカー関係者(名前等明かされず)からペトロヴィッチを紹介される。
- その後広島は、千葉の関係者を通じてイビチャ・オシムからペトロヴィッチの評価を聞く。
- 5月末 広島側オファーを出す。
- その後、ペトロヴィッチはオシムやズデンコ・ベルデニックへ電話、Jリーグや広島の評価を聞く。
- この時点で、広島のオファーを受けるつもりだったようである。
- 6月2日 織田秀和広島強化部長が会談へ出発と報道される。
- 初会談の食事会(午後10時)に、ペトロヴィッチは夫人同伴で出席。その後2時間ほどサッカー観など話し合い、大筋で合意。
- 6月7日 契約合意。
- 6月14日 来日、その足で練習参加、その後就任記者会見を行った。
[編集] 選手経歴
- レッドスター・ベオグラードユース(ユーゴスラビア・現セルビア)
- ラド・ベオグラード(ユーゴスラビア2部)1974-1976
- レッドスター・ベオグラード(ユーゴスラビア・現セルビア)1976-1978
- NKオリンピア・リュブリャナ(ユーゴスラビア・現スロベニア)1978-1984
- ディナモ・ザグレブ(ユーゴスラビア・現クロアチア)1984-1985
- SKシュトゥルム・グラーツ(オーストリア)1985-1993
[編集] 代表歴
- 旧ユーゴスラビアU-21代表
- 旧ユーゴスラビア代表:1試合0得点
[編集] 指導経歴
- SKシュトゥルム・グラーツ(オーストリア)1994-1998 アシスタントコーチ兼アマチュアチーム監督
- NKプリモアージェ(スロベニア)1998-1999 監督
- NKドモザーレ(スロベニア)1999-2000 監督
- NKプリモアージェ(スロベニア)2000-2001 監督
- NKオリンピア・リュブリャナ(スロベニア)2001-2002 監督
- NKムラ(スロベニア)2002-2003 コーチ
- SKシュトゥルム・グラーツ(オーストリア)2003.9-2006.5 監督
- FCケルンテルン(オーストリア)2006.5 監督 *一度は就任が決定するも、チーム合流前に広島がオファーしこれを受諾
- サンフレッチェ広島(日本)2006.6- 監督
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
広島監督就任記者会見 (RCC中国放送 広島サッカー向上委員会)
サンフレッチェ広島 - 2006 |
---|
1 下田崇 | 2 八田康介|4 ダバツ | 5 駒野友一 | 7 森崎浩司 | 8 森崎和幸 | 9 上野優作 | 10 ウェズレイ | 11 佐藤寿人 | 14 戸田和幸 | 15 中里宏司 | 16 李漢宰 | 17 服部公太 | 18 吉弘充志 | 19 盛田剛平 | 20 大木勉 | 21 木寺浩一 | 23 青山敏弘 | 24 前田俊介 | 25 高柳一誠 | 26 橋内優也 | 27 柏木陽介 | 28 槙野智章 | 29 趙佑鎮 | 30 入船和真 | 31 佐藤昭大 | 32 桑田慎一朗 | 33 中尾真那 | 36 河野直人 | 監督 ペトロヴィッチ | クラブ | 編集 |